石山御坊時代
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蓮如は延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。明応5年(1496年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が再び、それまでは港湾都市、国内流通の中心であった住吉津や難波津、中世には渡辺津といった大坂の源流になったとされる。建設は堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。 生玉荘と呼ばれていた当地が、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が永禄11年(1568年)に書いた史料によると、 「 明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々 」 —反故裏書 と記されている。これによると、そのまま礎石に使える大きな石が土中に多数揃っていたという不思議な状況に因んで、石山と呼称したようになったのであろうとしている。なお、後年の発掘調査の結果、大坂城址一帯は難波宮の比定地にもなっている。 これに対して、吉井克信が「石山」の名称が用いられるようになったのは石山本願寺が無くなった後の近世(江戸時代)以降の表現であり、「大坂本願寺」が当時用いられていた名称であるとする説 を唱えており、これを支持する研究者の間では「石山戦争」を「大坂本願寺戦争」と呼び変える動きがある。 蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。永正3年(1506年)に実如は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。 「享禄・天文の乱#河内国錯乱」も参照 これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。 享禄5年(1532年)5月、河内の飯盛山城に立て籠もった木沢長政が主筋である畠山義堯の他に、三好元長、筒井氏も加わった連合軍に攻囲された。そこで実如の後継法主証如は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて参戦した翌月6月には、攻囲軍を退散させた(飯盛城の戦い)。さらに一向一揆は法華宗徒であった三好元長を堺まで追い回し、自害に追いやった。その間にも参集した門徒は10万人まで集まったと伝わる。しかし、ここで解散せずに大和へも乱入した一向一揆に危機感を覚えた晴元が、天文に改元後の同年8月初旬から本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に晴元からの要請に応じた法華一揆衆や近江守護六角定頼によって、同年8月23日に3万から4万の兵で包囲された山科本願寺は、寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。 「享禄・天文の乱#石山本願寺への移転と和議成立」も参照
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