石山御坊時代とは? わかりやすく解説

石山御坊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:46 UTC 版)

石山本願寺」の記事における「石山御坊時代」の解説

蓮如延徳元年1489年)に法主実如譲り自身山科本願寺南殿隠居した。しかし、布教活動盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行来していた。明応5年1496年9月坊舎大坂御堂)の建設開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設され寺内町が再び、それまで港湾都市国内流通中心であった住吉津難波津中世には渡辺津といった大坂源流になったとされる建設は堺の町衆摂津河内和泉北陸門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年1497年4月上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門出来要害寺院完成した蓮如今までいくつかの坊舎建設したが、『日本都市史研究』によると、その中で大坂御坊がもっと美しいものであったという記録がある、としている。 生玉荘と呼ばれていた当地が、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのか、理由明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓永禄11年1568年)に書いた史料によると、 「 明応第五ノ秋下旬蓮如上人中略一宇建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々 」 —反故裏書記されている。これによると、そのまま礎石使える大きな石が土中多数揃っていたという不思議な状況因んで石山呼称たようになったのであろうとしている。なお、後年発掘調査結果大坂城一帯難波宮比定地にもなっている。 これに対して吉井克信が「石山」の名称が用いられるようになったのは石山本願寺無くなった後の近世江戸時代以降表現であり、「大坂本願寺」が当時用いられていた名称であるとする説 を唱えており、これを支持する研究者の間では「石山戦争」を「大坂本願寺戦争」と呼び変える動きがある。 蓮如後継者実如は、細川政元畠山義豊との明応の政変以降戦いに対して細川政元から強く参戦求められていた。永正3年1506年)に実如は、摂津河内門徒衆の反対押し切り本願寺として初め参戦した。 「享禄・天文の乱#河内国錯乱」も参照 これ以降本願寺武装化していき武士勢力との抗争始まっていく。 享禄5年(1532年5月河内飯盛山城立て籠もった木沢長政主筋である畠山義堯の他に、三好元長筒井氏加わった連合軍攻囲された。そこで実如後継法主証如は、細川晴元からの救援要請に応じて大坂御坊により門徒2万兵を率いて参戦した翌月6月には、攻囲軍を退散させた(飯盛城の戦い)。さらに一向一揆法華宗であった三好元長を堺まで追い回し自害追いやった。その間にも参集した門徒10万人まで集まったと伝わる。しかし、ここで解散せずに大和へも乱入した一向一揆危機感覚えた晴元が、天文改元後の同年8月初旬から本願寺末寺大坂御坊攻撃仕掛けてきた。更に晴元からの要請応じた法華一揆衆や近江守護六角定頼によって、同年8月23日に3から4の兵で包囲され山科本願寺は、寺内町共々焼き討ち遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。 「享禄・天文の乱#石山本願寺への移転和議成立」も参照

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