府中小笠原氏の流浪
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府中小笠原氏は統一を果たした長棟の没後、その長男である長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃の領国化を開始し(信濃侵攻)、長時は小県郡の村上義清らと連携して抵抗するが、天文19年(1550年)には本拠の林城が陥落すると信濃から駆逐される(『高白斎記』)。 このころ中央では第13代将軍・足利義輝を推戴する三好長慶が勢力をもっていたが、三好氏は小笠原一族を称し長時を庇護し、長時と三男貞慶は三好氏や京都小笠原氏など同族間で連絡拠点とする京に滞在し在京奉公を行う。永禄4年(1561年)には北信豪族を庇護し武田氏と川中島の戦いを繰り広げていた上杉謙信に長時の帰国支援が命じられるが、川中島合戦は永禄4年を境に収束し、長時の帰国は実現していない。 その後は将軍・義輝の没落と御館の乱により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時の3男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。 天正18年(1590年)には貞慶の長男・秀政が下総古河(現在の茨城県古河市)3万石を与えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、翌年の慶長6年(1601年)には信濃国飯田(現在の長野県飯田市)5万石に加増の上で転封となる。
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