府中小笠原氏の江戸時代とは? わかりやすく解説

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府中小笠原氏の江戸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:41 UTC 版)

小笠原氏」の記事における「府中小笠原氏の江戸時代」の解説

江戸時代には、府中小笠原氏からは四家大名となったいずれも譜代大名)。府中小笠原氏では小笠原秀政松平信康の娘の登久姫婚姻し、有力な譜代大名となった。秀政は下総国古河から信濃国飯田経て慶長18年1613年)には父祖縁の地である信濃国松本現在の長野県松本市)8万石転封となる。秀政と長男の忠脩は慶長20年1615年)の大坂夏の陣討死し、忠脩の長男の長次は幼年であったため、秀政の次男の忠真が家督相続した。忠真は元和3年1617年)に播磨国明石現在の兵庫県明石市10万石に転封となった寛永9年1632年)に豊前国小倉現在の福岡県北九州市15万石転封となる。同時に秀政の三男の忠知には豊後国杵築現在の大分県杵築市)4万石細川氏豊前国であったころの小倉藩飛び地)が、忠脩の長男の長次に豊前の南半分にあたる豊前国中津現在の大分県中津市)8万石与えられ、さらに秀政の四男で能見松平家継いでいた松平重直豊前国竜王現在の大分県宇佐市) 37千石転封となり、一族豊前周辺固めたまた、寛文11年1671年)には忠真の四男の真方が兄の忠雄から1万石を分与され小倉新田藩千束藩)を立藩した。 忠真系は幕末まで小倉藩主として継続、忠知系は転封重ねて最終的に肥前国唐津現在の佐賀県唐津市)6万石に、長次系は悪政や無嗣による改易最終的に播磨国安志現在の兵庫県姫路市1万石に移った。長次系の歴代当主小笠原秀政ゆかりの信濃守称した明治時代になると、小倉藩主家華族令により伯爵分家唐津安志千束藩主家はいずれ子爵に列せられた。 秀政系(府中小笠原)忠真系:信濃松本藩(忠真)→播磨明石藩(忠真)→豊前小倉藩(忠真、忠雄、忠基、忠総、忠、忠固、忠徴、忠嘉、忠幹、忠忱) 長次系:播磨龍野藩(長次)→豊前中津藩(長次、長勝、長胤、長円、長邕)→播磨安志藩長興、長逵、長為、長禎、長武、貞幹、貞孚)真方(忠真四男)系:豊前小倉新田藩千束藩)(真方、貞通、貞顕、貞温、貞哲、貞謙、貞嘉、貞寧、貞正) 忠知系:豊後杵築藩(忠知)→三河吉田藩(忠知、長矩、長祐、長重)→武蔵岩槻藩長重、長煕)→遠江掛川藩(長煕、長庸、長恭)→陸奥棚倉藩(長恭、 長堯、長昌)→肥前唐津藩(長昌、長泰、長会、長和長国

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