府中小笠原氏の江戸時代
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江戸時代には、府中小笠原氏からは四家が大名となった(いずれも譜代大名)。府中小笠原氏では小笠原秀政が松平信康の娘の登久姫と婚姻し、有力な譜代大名となった。秀政は下総国古河から信濃国飯田を経て、慶長18年(1613年)には父祖縁の地である信濃国松本(現在の長野県松本市)8万石に転封となる。秀政と長男の忠脩は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死し、忠脩の長男の長次は幼年であったため、秀政の次男の忠真が家督を相続した。忠真は元和3年(1617年)に播磨国明石(現在の兵庫県明石市)10万石に転封となった。 寛永9年(1632年)に豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)15万石に転封となる。同時に秀政の三男の忠知には豊後国杵築(現在の大分県杵築市)4万石(細川氏が豊前国主であったころの小倉藩飛び地)が、忠脩の長男の長次には豊前の南半分にあたる豊前国中津(現在の大分県中津市)8万石が与えられ、さらに秀政の四男で能見松平家を継いでいた松平重直が豊前国竜王 (現在の大分県宇佐市) 3万7千石に転封となり、一族で豊前周辺を固めた。また、寛文11年(1671年)には忠真の四男の真方が兄の忠雄から1万石を分与され小倉新田藩(千束藩)を立藩した。 忠真系は幕末まで小倉藩主として継続、忠知系は転封を重ねて最終的には肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)6万石に、長次系は悪政や無嗣による改易で最終的に播磨国安志(現在の兵庫県姫路市)1万石に移った。長次系の歴代当主は小笠原秀政ゆかりの信濃守を称した。 明治時代になると、小倉藩主家は華族令により伯爵、分家の唐津・安志・千束藩主家はいずれも子爵に列せられた。 秀政系(府中小笠原)忠真系:信濃松本藩(忠真)→播磨明石藩(忠真)→豊前小倉藩(忠真、忠雄、忠基、忠総、忠苗、忠固、忠徴、忠嘉、忠幹、忠忱) 長次系:播磨龍野藩(長次)→豊前中津藩(長次、長勝、長胤、長円、長邕)→播磨安志藩(長興、長逵、長為、長禎、長武、貞幹、貞孚)真方(忠真四男)系:豊前小倉新田藩(千束藩)(真方、貞通、貞顕、貞温、貞哲、貞謙、貞嘉、貞寧、貞正) 忠知系:豊後杵築藩(忠知)→三河吉田藩(忠知、長矩、長祐、長重)→武蔵岩槻藩(長重、長煕)→遠江掛川藩(長煕、長庸、長恭)→陸奥棚倉藩(長恭、 長堯、長昌)→肥前唐津藩(長昌、長泰、長会、長和、長国)
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