北越奥羽地方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 05:14 UTC 版)
5月に入ると、佐幕派の桑名藩の飛領がある越後国魚沼郡で一揆が発生した。同郡に入った新政府軍が戦乱を理由とした年貢の半減に応じた結果、間もなく鎮圧された。また、8月には村松藩でも村役人の追放を訴える一揆が起きて藩と新政府軍に鎮圧されている。この地域の一揆の主な舞台は北越戦争及び会津戦争の主戦場でもあった長岡藩と会津藩であった。 長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対する一揆が発生した。5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広がり一時は7,000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日にようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。 会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主松平容保の京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支配組織を完全に解体に追い込んだのである。
※この「北越奥羽地方」の解説は、「世直し一揆」の解説の一部です。
「北越奥羽地方」を含む「世直し一揆」の記事については、「世直し一揆」の概要を参照ください。
- 北越奥羽地方のページへのリンク