簗瀬三左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/04 12:16 UTC 版)
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 文化5年9月9日(1808年10月23日)[2] |
死没 | 明治15年(1882年)8月24日[3] |
改名 | 内蔵進→三左衛門 |
別名 | 真粋 |
墓所 | 青山霊園 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平容敬→松平容保 |
藩 | 会津藩 |
氏族 | 簗瀬氏 |
父母 | 父:簗瀬真季 |
妻 | ミエ |
子 | 真節、寅次郎、真文、キサ(梶原平馬妻)、ツヤ(内藤信節妻)、浅子(雑賀重村妻)、キシ(横山常守妻)、タミ(白坂庫太妻)、喜美子(村岡素一郎後妻)、真積(養子) |
簗瀬 三左衛門 (やなせ さんざえもん)は、江戸時代幕末期の会津藩家老。諱は真粋。
略歴
天保2年(1831年)1月に若年寄として取り立てられ、天保8年(1837年)7月に家老に就任。
天保9年(1838年)に通称を内蔵進から、簗瀬家代々の通称である三左衛門へと改めた。
その家老屋敷は他の家老のものと比べて一際大きく、同じ家老の西郷頼母、田中玄清以上で全家臣中二番目となる高禄(2200石)を食んだ。
文久2年(1862年)6月、容保の京都守護職就任を前に家老職を退き隠居した。
明治元年(1868年)の会津戦争にの際は鶴ヶ城に入って篭城戦に参加し、裏門の守備にあたった。また、家老・西郷頼母が城を去る際には頼母を引き止めたが丁重に断られたという。
戦後は転封先の奥州斗南に移り、斗南藩解散後は北海道に渡った。その後は上京し、四女・松尾の嫁ぎ先である横山家で過ごしたという。
簗瀬家
簗瀬家は会津藩「家老九家」の中でも小原家、井深家、西郷家、高橋家、三宅家と並び「家老六家」と称される名門であり、初代・正真から代々三左衛門を襲名し、父・真季で五代目にあたる。
妻・ミエとの間に三男七女があり、二男・虎次郎は早世し、二女・ツヤ(房子とも)は会津戦争の際に嫁ぎ先である内藤一族と共に自刃している。
孫の簗瀬真琴は日中戦争で歩兵第34連隊の連隊長として武勲を挙げて少将まで昇進し、簗瀬成一は第四高等学校(現在の金沢大学)在学中に音楽教師であった石倉小三郎(西田幾多郎も当時教師であった)の影響を受け、同校の応援歌・南下軍の歌を作曲している。
また、白虎隊士として自刃した簗瀬勝三郎、簗瀬武治は一族にあたる。
登場作品
出典
参考文献
- 山口孝平編『近世会津史の研究』下、歴史春秋社、1978年。
- 好川之範『幕末の密使 : 会津藩士雑賀孫六郎と蝦夷地』北海道新聞社、1992年。
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