義経の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 06:52 UTC 版)
文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝えた。6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。 鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟(三弟)・忠衡を誅殺している(『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため討たれたとも推測されている。 泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は大庭景義の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。
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