吾妻鑑の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「吾妻鑑の記述」の解説
吾妻鑑は鎌倉幕府の歴史書であることは疑いが無いが、頼朝の右筆(書記)によって書かれておらず、頼朝、頼家、実朝の源氏将軍の断絶後、京より藤原氏を迎え傀儡政権の下、北条氏によって編纂されている。幕府政所、問注所、大江広元の手記、九条兼実の日記『玉葉』、藤原定家の日記『明月記』も少々使われ、一番多いのは『平家物語』などの抜出で口承文芸を記録した文章は不統一性をもたらしている。それは義経の記述についても言え、歴史学的な文章と文学的(口承文芸)な部分を並列し、『吾妻鑑』は一等史料として扱えず、それに準ずるものだと高田実 は記している。 文治5年(1189年)4月30日 「陸奥国に於いて泰衡(=藤原泰衡)源予洲(=源義経)を襲う。予洲は持仏堂に入りまず妻子を害し次いで自殺す」 とこれは通説通りの記述だが、 文治5年(1189年)5月22日 「奥州の飛脚参着す 申して云く 去月晦日 民部少輔の館に於いて予洲を誅す(討つ、殺す)」 とここでも義経が死んだことが記述され同じ人物が二度死んだと書かれている。作家の中津文彦は義経の死についてははっきりせず、死んだという確証は何もないと云っている。また、「義経の北行が(泰衡軍をゲリラ部隊として考えていた)そうした大きな戦略目標を胸に秘めてのものだったとしたら、後に残った泰衡らの任務はおのずと明かになってくる。 言うまでもなく、時間稼ぎである」と書いている。 高舘襲撃事件から七ヵ月後、頼朝が奥州から鎌倉へ凱旋して文治6年(1190年)1月、 「伊予守・義経が奥州の賊徒を率いて挙兵したという噂が広がり、鎌倉が警戒した」 文治6年(1190年)正月6日、 「大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経を名乗って出羽の国の余目町に現れ、七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発した」 文治5年(1189年)12月23日には、 「工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。件國又物忩之由。依告申之。可致防戰用意之故也。」 とある。 義経・源義仲・藤原秀衡の子らが鎌倉に発向するとの風聞があり、深雪の期にもかかわらず、翌日には、工藤行光等を奥州に派遣したことが窺える。
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