吾妻鏡の曲筆と顕彰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 15:01 UTC 版)
『吾妻鏡』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』において、文治2年(1186年)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、文治5年(1189年)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3年)5月26日条の北条泰時の記事などを挙げて『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。また土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」において、1201年(建仁元年)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。
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