吾妻鏡における静御前とは? わかりやすく解説

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吾妻鏡における静御前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 19:11 UTC 版)

静御前」の記事における「吾妻鏡における静御前」の解説

以下、『吾妻鏡』に静が登場する箇所現代語訳文治元年11月6日1185年12月15日都落ちした義経一行九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行離散義経に従っていたのは源有綱堀景光武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった11月17日 義経大和国吉野山隠れているとの噂があるので、吉野山執行修行僧兵によって捜索するも見つからなかったところ、夜10時頃、義経の妾の静が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く。その姿がいかにも怪しいので衆徒達はこれを見咎め執行坊に連れてきて詳細を問う。静「私は九朗大夫判官の妾です。大物浜より豫州義経)はこの山に来ました。5日逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて伊豫守山伏の姿を借りて逐電ししまいましたその時数多く金銀類をわたくしに与え雑色男たち付けて京に送ろうされました。しかし彼らは財宝奪い取り、深い峯中に捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです。」 11月18日 静の証言によって義経探すため、吉野大衆はまた踏み分け山を捜索する吉野執行は静を大変気の毒に思い充分労ってから鎌倉差し出すことになった12月8日 吉野執行が静を京都にいる北条時政屋敷に送る。義経を捜すための軍が吉野山差し向けられる。 12月15日 北条時政から鎌倉送られ手紙より静の証言。「豫州が都を出て西海赴いた明け方一緒に連れ立って大物浜に到着しました。それから船が難破し海を渡ることができませんでしたその夜天王寺宿泊し豫州はそこから逃げて姿を隠しました迎えを寄越すので一両日の間ここで待つように約束し、ただし約束の日過ぎたすぐさま立ち去るように言われました。しばらく待っていると、馬を送ってきたのでこれに乗り、どこへ行くかわからないまま三日目吉野山着きました。そこで五日逗留し、それを最後にお別れしましたその後行方知りません。私は深山凌ぎやっとのことで蔵王堂着いたところ、吉野執行捕らえられました。」 12月16日 静を鎌倉召し出すよう時政返書送られる文治二年1月29日 義経行方未だに分からず。さらに問いただしたことがあるので、静を差し出すように北条時政伝えられる2月13日 鎌倉京都時政から静を送る旨の返事が届く。 3月1日 静、母の磯禅師と共に鎌倉到着安達清常屋敷に入る。 3月6日 すでに京都時政調べられたが、はなはだ信用できないとして再び問注所役人義経行方問われる。静「吉野山中ではなく、その僧坊である。しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、そこから(義経は)山伏の姿になり、大峰に入ると言って僧に送られて山に入りました自分もまた跡を慕って一の鳥居辺りまで行ったが、その僧に女人大峰に入るべからず叱られたので、やむなく都の方へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝奪って逃げてしまい、蔵王堂迷い着きました。」重ねて僧の名を尋ねるとそれは忘れたと言う。およそ京都での申し立てと今の言葉いささか違っているし、大峰入ったと言っているが、多武峯向かったあと隠れたとの噂があるので、それらにきっと虚偽があるだろうか重ねて取り調べるよう命じられる3月22日 静再び子細尋ねられるも、義経行方知らないというだけであった義経の子妊娠しているので出産ののち帰すとの沙汰4月8日 頼朝政子鶴岡八幡宮参拝。舞を行うよう控えの間から静を廻廊召し出す。この事は以前から命じていたところ、病気のためと称して断ったり、わが身の不遇あれこれ言うことはできないといえども豫州義経)の妾として晴れの場に出るのはすこぶる恥辱であると言って渋り続けていたが、政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」としきりに頼朝勧め、「八幡大菩薩供えるのだから」と言って静を説得別離からまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならないその場になって固辞するのを、再三の命によって舞うことになった。(舞に関して上記5月14日 工藤祐経梶原景茂千葉常秀八田重・藤原邦通ら御家人たちが酒を持って静の宿所向かい宴会を催す。磯禅師が舞を舞う。酒に酔った景茂から艶言投げかけられ、静は大泣きして「豫州義経)は鎌倉殿御兄弟、私はその妾です。御家人身分でどうして普通の男女の事のように思われるのか。豫州落ちぶれなければ、あなたごときに対面する事さえできないはずなのに。ましてやそのような艶言どもってのほかです。」 5月27日 夜、頼朝長女大姫依頼により、南御堂に舞を納めて禄を給う。 閏7月29日(閏は2度目7月)静男子出産する。これは豫州義経)の息子である。出産待ってから京に帰すことになっていたので、今日まで留め置かれていた。その父は関東背き謀反企て逃亡したその子女子ならばすみやかに母に返されるが、男子であれば今は産着中にあっても、将来禍根を残す恐れがあるので、赤子のうちに命を絶つように決まっていた。よって今日安達清常由比ヶ浜捨てるよう命じられる。これに先立ち清常が使いとして赤子受け取ろうとした。静はまったくこれを出さず、(赤子を)衣にまとい抱き臥し叫喚数刻に及ぶが、清常は厳しく催促する磯禅師恐縮し赤子取り上げて使い渡した。この事は、政子頼朝嘆願し宥めたが叶わなかった。 9月16日母子帰洛憐れんだ政子大姫多く重宝賜う

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