吾妻鏡における富士野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:49 UTC 版)
『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月14日条に、鉢田の戦いで敗れた平家方の長田入道の首を梟した地として「富士野の傍、伊堤の辺に梟する」とあり、伊堤(いで・井出、現在の富士宮市上井出)が富士野の傍に位置するとしている。同13日条には「廻富士野」とあり、平家方がこの合戦に向かう際には富士野を経由していた。 また建久4年(1193年)5月28日条に「富士野の神野の御旅館」とあり、「神野」(現在の上井出一帯に比定)も富士野に含まれる。この神野が、曽我兄弟の仇討ちの舞台の地である。また治承4年(1180年)10月14日条にある「神野道幷春日道」の「神野」も同地であるとされる。 『信長公記』には以下のように記される。 富士の根かた、かみのが原、井出野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ — 『信長公記』巻第十五 このように井出野と共に「かみのが原(神野ヶ原)」が記され、現在の富士宮市が比定地とされる。また天文16年(1547年)に三条西実枝が甲斐国へ下向した際の記録が『甲信紀行の歌』に残り、その帰京の道中における和歌の詞書に「本栖を御立ありての道にて」「かみの原にて御落馬有し時」とある。このように本栖を出発後に「かみの(神野)原」を通過している。 『鎌倉北条九代記』巻1に「富士野御狩 付曾我兄弟夜討」が確認されるが、その記述は『吾妻鏡』や『将軍記』に拠るものである。
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