吾妻鏡における最後の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:43 UTC 版)
「本庄時家」の記事における「吾妻鏡における最後の記述」の解説
『吾妻鏡』で時家の名が最後に確認できる記述は、建長2年(1250年)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、二条面西洞院東二十本、の項に、一本 本庄四郎左衛門尉、とあるのが最後となる(京都に出向いていた事は分かる)。この項に、兄である三郎右衛門家次の名が、「本庄三郎左衛門」として初めて見られ、確認できるが、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は「庄三郎右衛門」と考えられる。時家は兄頼家の没年から考えても13世紀中頃には没したと推測される。
※この「吾妻鏡における最後の記述」の解説は、「本庄時家」の解説の一部です。
「吾妻鏡における最後の記述」を含む「本庄時家」の記事については、「本庄時家」の概要を参照ください。
- 吾妻鏡における最後の記述のページへのリンク