吾妻鏡における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 07:13 UTC 版)
『吾妻鏡』の、建長2年(1250年・13世紀中頃)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、「本庄三郎左衛門」の名で記載されているのが、文献上での家次の名の初見であり、弟である四郎左衛門尉時家の名も見られる(京都に出向いていたものと見られる)。これが家次の名が確認できる初めてであり、最後である。弟である時家に対し、余りにも登場していないが、これは『吾妻鏡』が東国主体の内容である為と考えられ、西日本で活動していた家次は余り確認されていなかったものとみられる。また、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は、「庄三郎右衛門」と考えられ、本庄三郎左衛門は誤記と考えられる。『吾妻鏡』の記述から、家次か時家かが初めて本庄氏を名乗ったものと見られるが、家次が備中庄氏として活動していた以上、本庄氏を初めて名乗ったのは弟の時家と考えられる。
※この「吾妻鏡における記述」の解説は、「庄家次」の解説の一部です。
「吾妻鏡における記述」を含む「庄家次」の記事については、「庄家次」の概要を参照ください。
- 吾妻鏡における記述のページへのリンク