吾妻鑑の初期鎌倉像
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なお従来は鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降との考えもあり、平安時代中期以前の鎌倉の実情については文献史料に乏しく、あまり明確ではないとされていた。また『吾妻鑑』治承4年(1180年)12月12日条の、頼朝が新邸(大倉御所)に入居した際の記事に、「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、正當于此時間、閭巷直路、村里授号、加之家屋並甍、門扉輾軒云々。(ここはもともと辺鄙な土地で、漁民や農民以外に住もうとする者は少なかったが、まさにこの時〈=頼朝の御所入り〉から、道路は真っ直ぐにされ、村里にも名が付けられ、家屋・門扉が建ち並ぶようになったと言う)」とあることから、頼朝入部以前の鎌倉は、人家も疎らな辺境というイメージもあった。 上記の「辺鄙な土地」という描写には、頼朝の業績を称揚するための演出的な意図が含まれていると見られており、頼朝(またはそれ以前からの河内源氏たち)が鎌倉を拠点に選んだ理由は、むしろ東西を結ぶ海上交通の要衝という地理的な特性を踏まえてのことだったのではないかとも考えられている。
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