嚢塵埃捨録の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 17:03 UTC 版)
江戸時代の文化8年(1811年)に成立した『嚢塵埃捨録』には、奥州合戦の折、本吉四郎高衡と日詰(樋爪)五郎頼衡、名取別当の金剛坊秀綱が高舘城に籠り、2万の兵で鎌倉軍を迎え撃ったとある。高衡と共に高舘城に籠ったとされる日詰五郎頼衡という人物については、日詰五郎という名前からは五郎沼の名前の由来とされる樋爪五郎季衡を連想させるが、頼衡という名前は秀衡の六男の名前でもある。『尊卑分脈』によれば頼衡は奥州合戦の前にひいては義経の死の2ヶ月前に泰衡によって討たれたことになっているので、高舘城に籠った人物はその頼衡ではなく、日詰という姓が冠せられていることから、樋爪一族の誰かであったと考えられる。また、名取別当の金剛坊秀綱については、阿津賀志山の戦いの時に国衡と共に鎌倉軍を迎え撃った金剛別当秀綱と同一人物と思われるが、『吾妻鏡』によれば金剛別当秀綱は阿津賀志山の戦いで討ち取られたことになっている。 ただ、『吾妻鏡』の記述には混乱も見られ、やはり討ち取られたことになっている佐藤庄司基治が、合戦後赦免されたとの記述もある。基治については、『吾妻鏡』以外の書物でも『信達一統誌』では生け捕りの後赦免され、後に大鳥城で卒去したとあり、『大木戸合戦記』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある一方、『観述聞老志』や『封内名蹟志』では奥州合戦で戦死したとあり、真相は不明である。従って、金剛別当秀綱についても、阿津賀志山で戦死せず、逃れて高衡の籠る高舘城に合流した可能性はあると言える。 ちなみに、この高舘山には熊野那智神社もある。名取市高舘地区には他に熊野新宮社と熊野本宮社があり、紀州同様、熊野三山が揃っている。文治五年奥州合戦の折、「泰衡一方後見」と記される熊野別当、そして名取郡司が捕縛され、後に放免されているが、この名取という地域、そして熊野神社も奥州藤原氏を支えた一勢力であったことが窺える。
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