義経の忠臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:08 UTC 版)
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。 一行は加賀国安宅の関で、富樫介(能の『安宅』では富樫の何某(なにがし)、歌舞伎の『勧進帳』では富樫左衛門。富樫泰家に比定される)に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思ってあえて騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える。 義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。 なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して蝦夷地へ、あるいは西国に逃れたとする、いわゆる「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
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