義経と吉野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:32 UTC 版)
治承・寿永の乱(1180年(治承4年)から1185年(文治元年))の後、兄源頼朝と対立した源義経は、京を落ちて九州行きを図る。1185年(文治元年)11月6日には摂津国大物浜から九州へ船出しようとしたが、途中暴風に遭い難破し軍兵のほとんどと離散し、義経は摂津に吹き戻されてしまう。義経郎党と愛妾・静御前らは頼朝の捜索網をくぐり抜け、吉野山に身を隠したが、ここでも追討を受け義経は静御前と別れて、義経らは東国へと脱した(『吾妻鏡』)。(吉野山での出来事は静御前を参照)。 この逸話は後世、江戸時代中期に「義経千本桜」として劇作化された(詳しくは義経千本桜を参照)。また義経縁の地には、様々な伝承を残している。その一つとして、義経が牛若丸と称した幼少の時に、平治の乱に敗れて、父源義朝は東に敗走した。この時、牛若丸は生母の常盤御前に抱かれて、母の郷なる龍門郷牧の地(現在の宇陀市大宇陀牧)にしばしば落ち延びたという伝承がある。
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