終焉の地について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:18 UTC 版)
静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。 終焉の地が諸説ある中、岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社は、静御前を祀る神社として最北端であろう。源義経が平泉を抜け出して、北海道に渡ったという義経北行紀の経路箇所にあたり、静はここで義経の2人目の子を出産しようとするが、難産のすえ、母子ともに亡くなったという。地区の人たちは、静御前を尊び、その後は神様として祀ったのが鈴ヶ神社である。鈴久名の地名は静の訛りから変化してできた地名ともいわれ、義経伝説や金売り吉次などの伝説も数多く残る。神社のふもとには静御前供養塔が建てられているが、これは近年になってから建てたもので、静御前と生まれるはずであった子供のお骨は、金売り吉次が密かに京都の実家に持っていったと言われている。 茨城県古河市下辺見には、静御前が行き先を思案したとされる思案橋という橋がある。 かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった高柳寺(現・茨城県古河市の光了寺)には巌松院殿義静妙源大姉という静御前の戒名がある。その過去帳には文治5年(1189年)9月15日に他界した、とある。 埼玉県久喜市栗橋区域の伝説によると、源義経を追ってきた静御前は1189年(文治5年)5月、現在の茨城県古河市下辺見(しもへみ)で義経の死を知り、当時栗橋町にあった高柳寺(現光了寺。古河市中田)で出家したものの、慣れぬ旅の疲れから病になり同年9月15日に亡くなったとされる。栗橋駅東口には静御前の墓と義経の招魂碑、さらには生後すぐに源頼朝によって殺された男児の供養塔がある。毎年9月15日には「静御前墓前祭」と称する追善供養が行われる。また10月第3土曜の「静御前まつり」では市民が義経・静御前・白拍子などに扮してパレードが行われる。 埼玉県久喜市栗橋区域には、かつて静村という村があった。 兵庫県淡路市志筑(しづき)はかつてしづの郷と呼ばれた。静御前は鎌倉で義経との子を殺されたが命を助けられ、頼朝の妹の夫、一条能保に預けられたという。一条家の荘園が志筑にあったためここに隠れ住み、1211(建暦元)年の冬に47歳で没したため、供養として宝篋印塔が建てられたと伝えられている。 奈良県大和高田市の磯野は磯野禅尼の里で、静御前も母の里に戻って生涯を終えたとする伝説が伝えられる。 新潟県長岡市栃尾地域(栃堀)にも、静御前のものと伝えられる墓が存在する。2005年のNHK大河ドラマ『義経』では、番組中の「義経紀行」において、この墓が紹介されている。 福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静御前が身を投げたと言われる美女池や、その供養のために建立された静御前堂があり、静御前堂前の大通りは静御前通りと名づけられている。2005年には静御前堂奉賛会により鶴岡八幡宮の東の鳥居付近に「静桜」が植樹された。 長野県大町市美麻大塩には、静御前が奥州と大塩を間違えてたどり着き、そこで亡くなりその時、地面に刺さった杖から芽吹いたという、イヌザクラの巨木「静の桜」がある。別名「千年桜」ともいわれており、山中深く美麻の丘に一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、修行僧が静御前の魂を供養し、千年桜より癒されたといわれている。また、薬師寺には勧融院静図妙大師という静御前の戒名を記した墓と、磯禅尼の供養碑もある。 福岡県福津市にも墓がある。伝承によると、落ち延びた静御前は、豊後国・臼杵を経て宗像氏能の計らいで、勝浦村・勝田の地に移住し、実子の臼杵太郎を産んで、息子が大分県の大友氏に仕い、静御前は義経を探しに京都に上洛したという。 香川県東かがわ市には次のような言い伝えがある。愛児を殺され、生きる望みを失った静は自殺を考えたが、母磯野を伴っていたため、それもかなわなかった。文治3年8月、母の故郷である讃岐国入野郷小磯(現・東かがわ市小磯)へ母と共に帰り、文治4年3月、讃岐国井閇郷高木(現・香川県木田郡三木町井戸高木)にある長尾寺において宥意和尚から得度を受けた。剃髪後、母は磯野尼、静は宥心尼とそれぞれ名を改め、薬師庵において信仰の日々を送るようになった。後年、母磯野尼は長尾寺への参詣の帰り、井戸川の畔で寒さと老衰のため倒れ、69歳で亡くなり、まもなく静も母の後を追うように建久3年3月、義経に逢うことなく24歳の短い生涯を閉じた。長尾寺には静親子が剃髪したときに使用したとされる剃刀を埋めた剃髪塚、井戸川橋のある県道沿いには母磯野尼の墓、昭和地区には静が俗世への想いを断ち切るために、吉野山で義経から形見としてもらった紫檀の鼓(初音)を井戸川橋に棄てたとされる「鼓ヶ淵」がある。その他、小磯には静屋敷が、三木町中代には静庵・静の本墓・位牌・下女琴柱の墓があり、同町下高岡の願勝寺にも静の墓とされるものがある。
※この「終焉の地について」の解説は、「静御前」の解説の一部です。
「終焉の地について」を含む「静御前」の記事については、「静御前」の概要を参照ください。
- 終焉の地についてのページへのリンク