政治交渉
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「レインボー・ウォーリア号事件」の記事における「政治交渉」の解説
フランスは当初事件への関与を全面否定した。しかしエージェント2人が拘束され、ほかにもさまざまな遺留品が発見されてフランス関与の疑いが強まると、フランス国内のメディアからも追及の動きが現れた。そこでフランスでは8月にベルナール・トリコによる関係者への聞き取り調査が行われた。トリコ報告書はグリーンピースへの諜報活動は認めたが、爆破事件への関与を否定。この報告書はフランス政府への疑念を余計に強める結果に終わった。 9月に入ると、フランス政府が事件について無関係という姿勢を貫くことはもはや困難に思われた。国内では政府に対して、ミッテラン大統領以下は事件の責任関係を明らかにし、任務のために外国で犯罪者として起訴されている忠実なエージェントを救うべく全力を尽くすべきだという意見が強まった。フランスでは事件そのものに対してよりも、政府の事件への関与が明らかになりつつあるのに、責任逃れに終始してエージェントを見殺しにしようとしていることについての批判が強かった。最終的にDGSE局長ピエール・ラコストは解任され、国防大臣シャルル・エルニュは辞任した。9月22日、フランス首相ローラン・ファビウスはテレビ放送でフランス政府の事件への関与を認めた。 11月22日、ニュージーランドでフランスのエージェント2人に対して禁固10年の判決が下された。2人はニュージーランドの検察が起訴内容を殺人から故殺 (Manslaughter) に切り替えたのを受けて起訴事実を承認していた。レインボー・ウォーリア号に実際に爆弾を仕掛けたのが誰なのかニュージーランド警察は把握しておらず、殺人罪での審理進行を困難と判断したため、司法取引を行ったと見られているが、フランス政府とニュージーランド政府との間での政治交渉の結果と見る向きも当時から多い。 裁判に前後して、フランスはエージェントの身柄引き渡しを強く求め始めた。もしそれが叶えられないならば、フランスへのニュージーランド産物品の輸入禁止処置を取るのみならず、欧州諸共同体への影響力を行使して西ヨーロッパの市場からニュージーランドを締め出すと威嚇した。一方ニュージーランド首相デビッド・ロンギは、そのような不当な圧力には屈しないという姿勢を示したものの、ニュージーランドは農産物の輸出に経済の大きな部分を頼っている国で、輸入禁止はとても痛かった。また当時ニュージーランドはANZUS危機の真っ最中で、アメリカにも、宗主国イギリスにも冷淡な姿勢をとられて外交的に孤立無援の状態だった。さりとて安易に妥協すれば世論の突き上げを食らうのは必定で、ロンギは国民に一方的譲歩と受け取られない形で、打開策を見つけなければならなかった。 そこでニュージーランドはオランダの仲介のもとにフランスに対して、この件を国連事務総長ハビエル・ペレス・デ・クエヤルの裁定に委ねるのはどうかと提案、フランスもこれを了解した。1986年7月6日に、フランスはニュージーランドに1300万NZドル払い、2人は引き取られてフランス領ポリネシアにあるトゥアモトゥ諸島ハオ環礁の施設に3年のあいだ居続けるという裁定内容が決定され、7月9日に両国は書簡を交わしてこの決定を承諾し遵守するという協定を結んだ。 ところがはやくも1987年12月にはマファールが健康問題を理由に帰国、1988年5月にはプリウールが同様に帰国した。しかもプリウールは妊娠しており、彼女は国から夫と過ごす時間を与えられていたこともわかった。ニュージーランド政府は2人をハオへ戻すことを強く要求したが、フランスはこれを拒否、あらためて事務総長による仲介裁判所が設けられた。1990年に、フランスの協定遵守義務違反を認定するものの、実際に2人を島に戻すのには及ばないとし、フランスがニュージーランドに追加の支払いをするということで一応は落ち着いた。これは国家間の係争解決の事例として国際法の分野でしばしば引き合いに出されるものである。
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政治交渉
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1996年 メキシコ政府との間で「サンアンドレスの合意」締結(先住民の権利と文化の尊重を約束) 1997 白人・混血のメキシコ市民の有力な支援組織が発足RCACZ(「サパティスタの大義」支援市民ネットワーク) FZLN(サパティスタ民族解放戦線) 1999年3月10日 メキシコ市の中央広場でEZLNと支持者による草の根市民集会 2001年 「先住民の尊厳のための行進」(下記の各項を要求)「サンアンドレス合意」の実現 先住民の諸権利の尊重と法制化 政府側からの軍事圧力の停止 拘留されているサパティスタ構成員の釈放 2001年3月11日 メキシコ市の中央広場で「8万人」(主催者発表)の市民が上記行進を出迎え。EZLN代表は、市民の前で「国会において自らの立場と意見を表明し、議員たちと直接に意見交換を行う機会」を要求。 2001年3月28日 サパティスタの先住民司令官たちが、国会において「目出し帽とゲリラ服」姿でEZLNの思想と要求を表明
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