政治上の遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
政府はサスカチュワン州メティの求めた土地を1887年終盤までに提供し、彼らの希望にしたがってメティス川の区画の再測量を行った。メティは当時与えられた土地について長い目で見た場合の価値を理解しておらず、間もなく投機家たちはそれを買いあさり後に転売で巨額な利益を手に入れた。いろいろな面でリエルが恐れていた最悪の事態が現実のものとなった。反乱の失敗後、マニトバの教育問題を取り巻く論争に見られるように、サスカチュワン、マニトバの両州でフランス語やローマ・カトリック信仰は少数派となった。メティ自身も徐々に望まない土地や先住民特別居留地(メティには先住民に与えられる協定上の地位は与えられていない。)の裏側などに住むことを余儀なくされた。サスカチュワンは1905年まで州制が敷かれていなかった。 リエルの処刑とマクドナルド首相の減刑拒絶の姿勢は、継続的なケベック州の不和を招来し、カナダの政治秩序に根本的な変質をもたらした。ケベック州では、オノレ・メルシエール(Honore Mercier)がリエル処刑に対する不満を利用して、ケベック自由党を再結成した。ケベック独立を標榜するこの政党は、1886年の州選挙においてそれまで多数を占めたケベック保守党を破る議席を獲得し与党となった。1887年の連邦選挙においても同様に、連邦自由党が大きく議席を伸ばし、保守党は大敗した。続いて1896年連邦選挙ではウィルフリッド・ローリエ卿率いる自由党が勝利を収め、20世紀カナダの連邦政治において同党が支配権を握る足がかりを作った。 1994年11月16日にブロック・ケベコワ所属議員のスザンヌ・トランブレー(Suzanne Tremblay)が議員立法案 C-228, "An Act to revoke the conviction of Louis David Riel"(『ルイ・ダヴィッド・リエルの有罪判決を撤回する法律』案)を提出したことは、リエルの名が未だにカナダ政治において影響力を有する一つの証拠となった。この法案は否決されはしたもののイギリス系カナダ人の間では一般的に、1995年のケベック州の独立を問うた住民投票の前に独立支援に対し刺激を与えるための試みであったとして認識されている。
※この「政治上の遺産」の解説は、「ルイ・リエル」の解説の一部です。
「政治上の遺産」を含む「ルイ・リエル」の記事については、「ルイ・リエル」の概要を参照ください。
- 政治上の遺産のページへのリンク