政治不安と経済不況とは? わかりやすく解説

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政治不安と経済不況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:48 UTC 版)

コスタリカの歴史」の記事における「政治不安と経済不況」の解説

1929年世界恐慌から1932年ごろにかけて、コスタリカの総輸出額は1800ドルから800ドルへと落ち込んだこの影響関税収入激減し国家深刻な赤字財政襲われた。大量失業者生み出し1933年にはサンホセ暴動発展したことなどを受け、政府経済への介入をさらに強めた1933年コーヒー保護協会設立し1935年農業労働者最低賃金定められた。さらに1936年には銀行改革行い紙幣供給に対してより強い権限持ったまた、失業者救済のために公共建設事業費が3倍に増加し当時大統領レオン・コルテスは「セメント政府」と揶揄された。 復興兆し見せ始めた1939年第二次世界大戦勃発により、ヨーロッパ市場閉鎖され、再び不況の波がコスタリカ襲ったこうした事情から、買取価格の安いアメリカ貿易を行う他無く国家歳入激減した1940年社会民主主義からラファエル=アンヘル・カルデロン=グアルディア政権誕生し野心的な社会改革計画進められた。同年コスタリカ大学創立1941年には社会保障制度確立1943年には生活保護規定され労働法制定され福祉国家基礎築かれた。 こうしたグアルディア政権行った社会改革富裕層反発招き社会的緊張もたらした1944年選挙において、国民共和党から立候補したテオドロ・ピカードは、反カルデロン派から選挙に不正があったと断定され国民の持つ政治制度への不信感増大したこれに伴いテロリストらによる爆破事件頻発するようになり、改革続行困難になった。1946年、反カルデロン派にありながらコルテス派のリーダーとして平和的交渉による対立解消目指していたレオン・コルテスが死亡すると、強硬派勢い付きコスタリカ日報編集者オティリオ・ウラテを指名し1948年の選挙開始された。この選挙2期目を狙うグルディアとウラテ一騎討ちとなり、大統領選ウラテ勝利国会議員選でグルディアが勝利した。この結果カルデロン派や共産党支持派ウラテ大統領選に不正があったと糾弾カルデロン派で占め議会において、先の大統領選挙の結果を公式に無効とした。 カルデロン派とグアルディア派はこの選挙問題に対して妥協点模索していたが、1948年3月12日農業実業家ホセ・フィゲーレス・フェレールは、民主主義的な国民選挙を守るという口実反乱起こした4月19日まで続いたこの武力闘争は、4000人以上の死者を出すコスタリカ史上最悪内戦となったカリブ外人部隊用いたフィゲーレスの国民解放軍強靭で、太刀打ちできないままグアルディア政権降伏した。フィゲーレスはグアルディア支持者数千人を国外へ追放し共産党非合法化すると、1948年5月1日暫定政権主導者として名乗りを上げた。 フィゲーレスは、銀行の国有化資本利得対する特別税の徴収行いあらゆる支配的権力排除乗り出した翌年1949年憲法英語版)が施行されると、親米基調とし、政治混乱させる装置にしかならない軍隊廃止されそれまで軍隊担っていた役割警察移管された。また、女性黒人政治参加認められた。この軍隊廃止により、コスタリカ以降他のラテンアメリカ諸国繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった選挙舞台浄化一通り終えたフィゲーレスはウラテ大統領就任することを認め1951年国民問題研究センター知識人支援企業などをまとめあげ、国民解放党組織した1948年12月には旧政府軍アナスタシオ・ソモサ・ガルシア支援され傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカ侵攻するも失敗終わった1949年8月には暫定政権公安大臣であったエドゥガル・ガルドナがクーデター企てたが、失敗終わった1955年1月には、元コスタリカ大統領だったムチャイスキの息子ピカード2世が再びソモサ支援され傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカ侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍は幾つかの都市攻略したものの、コスタリカ武装警察反撃と、OAS仲介により同年2月停戦し、侵攻軍は武装解除したこのようにして国難乗り越えると、1949年憲法による政治安定国家成長助け1950年から1973年までにおいて、第二次世界大戦後世界経済成長歩調合わせる形で、コスタリカでは人口80万人から200万人まで増加するという人口爆発起こった経済面においても、バナナ年間輸出量が350箱から1800箱に増えコーヒー販売価格が100kgあたり9ドルから68ドル跳ね上がるなどし、得られ利益国家システム改善技術改良のための開発費へ回すことができるようになったこうしたインフラ整備経済の多様化促し1963年中米共同市場加盟してからは外資系企業コスタリカ市場次々と参戦し多様化した経済それぞれの分野急激に成長しコスタリカ中流階級市民繁栄安定寄与した人々家電製品容易に入手できるようになり、1960年にはコスタリカ人による初のテレビ番組放映された。また、国立自治大学コスタリカ科学技術研究所、国立遠隔地大学など新設され、高い技術力専門性を持つ科学者輩出した一方で国内利潤もたらさない外資系工業により、工業輸入額と工業輸出額の乖離年々増大し1950年50コロンであった財政赤字1970年には9000コロン肥大化した。また、オイルショック影響により、関税売上税などの間接税依存していた国家収入政府負債増加させ、公的対外債務1978年までに10億ドル超え1980年コスタリカ経済は完全に崩壊した。 さらに、1978年サンディニスタ民族解放戦線全面蜂起するソモサ王朝嫌っていたコスタリカ人は、これを全面的に支援しニカラグア革命支えたその後サンディニスタ内での路線対立によりFSLN司令官だったエデン・パストラ亡命すると、パストラを司令官にしてコントラ一派民主革命同盟ARDE)が組織されコスタリカアメリカ合衆国による対ニカラグア作戦基地となり、中立原則一時揺らいだこの影響中米地域に対す通商壊滅的な打撃を受け、IMFによる国家事業民営化などの勧告実施された。これに対しロドリゴ・カラソ大統領1981年9月一切対外債務支払い停止宣言し、IMFとの交渉をすべて打ち切り関係者国外追放断行した。この政策コスタリカアメリカへの依存をさらに強め1982年国民解放党から大統領就任したアルベルト・モンヘは、アメリカロナルド・レーガン大統領対しサンディニスタ政権との代理戦争引き受け明確な見返り要求したレーガンUSAIDコスタリカ派遣し13ドル資金譲渡し下部組織としてコスタリカ開発構想連合(CINDE)を組織し経済モデル改変取り組んだ

※この「政治不安と経済不況」の解説は、「コスタリカの歴史」の解説の一部です。
「政治不安と経済不況」を含む「コスタリカの歴史」の記事については、「コスタリカの歴史」の概要を参照ください。

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