政治不安と経済不況
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「コスタリカの歴史」の記事における「政治不安と経済不況」の解説
1929年の世界恐慌から1932年ごろにかけて、コスタリカの総輸出額は1800万ドルから800万ドルへと落ち込んだ。この影響で関税収入が激減し、国家は深刻な赤字財政に襲われた。大量の失業者を生み出し、1933年にはサンホセで暴動に発展したことなどを受け、政府は経済への介入をさらに強めた。1933年にコーヒー保護協会を設立し、1935年に農業労働者の最低賃金が定められた。さらに1936年には銀行改革を行い、紙幣の供給に対してより強い権限を持った。また、失業者救済のために公共建設事業費が3倍に増加し、当時の大統領レオン・コルテスは「セメントと鉄の政府」と揶揄された。 復興の兆しを見せ始めた1939年、第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ市場が閉鎖され、再び不況の波がコスタリカを襲った。こうした事情から、買取価格の安いアメリカと貿易を行う他無く、国家の歳入は激減した。1940年、社会民主主義からラファエル=アンヘル・カルデロン=グアルディア政権が誕生し、野心的な社会改革計画が進められた。同年にコスタリカ大学を創立、1941年には社会保障制度が確立、1943年には生活保護が規定され、労働法が制定され、福祉国家の基礎が築かれた。 こうしたグアルディア政権の行った社会改革は富裕層の反発を招き、社会的緊張をもたらした。1944年の選挙において、国民共和党から立候補したテオドロ・ピカードは、反カルデロン派から選挙に不正があったと断定され、国民の持つ政治制度への不信感が増大した。これに伴い、テロリストらによる爆破事件が頻発するようになり、改革の続行が困難になった。1946年、反カルデロン派にありながらコルテス派のリーダーとして平和的交渉による対立の解消を目指していたレオン・コルテスが死亡すると、強硬派が勢い付き、コスタリカ日報の編集者オティリオ・ウラテを指名し、1948年の選挙が開始された。この選挙は2期目を狙うグルディアとウラテの一騎討ちとなり、大統領選でウラテが勝利、国会議員選でグルディアが勝利した。この結果、カルデロン派や共産党支持派がウラテの大統領選に不正があったと糾弾、カルデロン派で占める議会において、先の大統領選挙の結果を公式に無効とした。 カルデロン派とグアルディア派はこの選挙問題に対しての妥協点を模索していたが、1948年3月12日、農業実業家ホセ・フィゲーレス・フェレールは、民主主義的な国民選挙を守るという口実で反乱を起こした。4月19日まで続いたこの武力闘争は、4000人以上の死者を出すコスタリカ史上最悪の内戦となった。カリブ外人部隊を用いたフィゲーレスの国民解放軍は強靭で、太刀打ちができないままグアルディア政権は降伏した。フィゲーレスはグアルディア支持者数千人を国外へ追放し、共産党を非合法化すると、1948年5月1日、暫定政権の主導者として名乗りを上げた。 フィゲーレスは、銀行の国有化、資本利得に対する特別税の徴収を行い、あらゆる支配的権力の排除に乗り出した。翌年、1949年憲法(英語版)が施行されると、親米を基調とし、政治を混乱させる装置にしかならない軍隊は廃止され、それまで軍隊の担っていた役割は警察に移管された。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この軍隊廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。選挙舞台の浄化を一通り終えたフィゲーレスはウラテが大統領に就任することを認め、1951年、国民問題研究センターの知識人や支援企業などをまとめあげ、国民解放党を組織した。 1948年12月には旧政府軍がアナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻するも失敗に終わった。1949年8月には暫定政権の公安大臣であったエドゥガル・ガルドナがクーデターを企てたが、失敗に終わった。1955年1月には、元コスタリカ大統領だったムチャイスキの息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍は幾つかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。 このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、1950年から1973年までにおいて、第二次世界大戦後の世界経済の成長に歩調を合わせる形で、コスタリカでは人口80万人から200万人まで増加するという人口爆発が起こった。経済面においても、バナナの年間輸出量が350万箱から1800万箱に増え、コーヒーの販売価格が100kgあたり9ドルから68ドルへ跳ね上がるなどし、得られた利益を国家システムの改善や技術改良のための開発費へ回すことができるようになった。こうしたインフラの整備は経済の多様化を促し、1963年に中米共同市場に加盟してからは外資系企業がコスタリカ市場へ次々と参戦し、多様化した経済がそれぞれの分野で急激に成長し、コスタリカ中流階級市民の繁栄と安定に寄与した。人々は家電製品を容易に入手できるようになり、1960年にはコスタリカ人による初のテレビ番組が放映された。また、国立自治大学、コスタリカ科学技術研究所、国立遠隔地大学などが新設され、高い技術力や専門性を持つ科学者を輩出した。 一方で国内に利潤をもたらさない外資系工業により、工業輸入額と工業輸出額の乖離が年々増大し、1950年に50万コロンであった財政赤字は1970年には9000万コロンに肥大化した。また、オイルショックの影響により、関税や売上税などの間接税に依存していた国家収入は政府の負債を増加させ、公的対外債務は1978年までに10億ドルを超え、1980年にコスタリカ経済は完全に崩壊した。 さらに、1978年にサンディニスタ民族解放戦線が全面蜂起するとソモサ王朝を嫌っていたコスタリカ人は、これを全面的に支援し、ニカラグア革命を支えた。その後サンディニスタ内での路線対立によりFSLNの司令官だったエデン・パストラが亡命すると、パストラを司令官にしてコントラの一派民主革命同盟(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカ合衆国による対ニカラグア作戦の基地となり、中立原則も一時揺らいだ。この影響で中米地域に対する通商が壊滅的な打撃を受け、IMFによる国家事業の民営化などの勧告が実施された。これに対しロドリゴ・カラソ大統領は1981年9月、一切の対外債務の支払い停止を宣言し、IMFとの交渉をすべて打ち切り、関係者の国外追放を断行した。この政策でコスタリカはアメリカへの依存をさらに強め、1982年、国民解放党から大統領に就任したアルベルト・モンヘは、アメリカのロナルド・レーガン大統領に対し、サンディニスタ政権との代理戦争を引き受ける明確な見返りを要求した。レーガンはUSAIDをコスタリカに派遣し、13億ドルの資金を譲渡し、下部組織としてコスタリカ開発構想連合(CINDE)を組織し、経済モデルの改変に取り組んだ。
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