鎌倉の戦いの戦死者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 03:00 UTC 版)
1953年、由比ガ浜にある鎌倉簡易裁判所用地で大量の人骨が発見され、1955年まで調査が行われ、900体以上の人骨が発見された。これらの人骨はほとんどが青年壮年の男性のもので、年齢や性別に関係なく戦いのものと思われる刀創・刺創・打撲創が散見された。また一部の骨には動物にかじられた痕跡もあり、また経文らしき漢字が墨書された頭骨もあった。これらによって新田義貞による掃討作戦の後に、死体が放置され、それを野犬化した闘犬により肉を喰い荒らされた、またそれを僧侶が埋葬した、という事実が浮かび上がる。 また、最近では由比ガ浜地下駐車場を建設する際の調査で3000~4000体の人骨が発見された(由比ヶ浜南遺跡)。由比ヶ浜は庶民の遺体放置の場ではあったが、この中には鎌倉での戦いにおける戦死者の骨もあるものと見られる[要出典]。 鎌倉市材木座にある浄土宗九品寺は、鎌倉攻めによる敵味方双方の戦死者を弔うために新田義貞が、鎌倉市小町にある北条執権亭跡にある天台宗宝戒寺は後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てた寺である。 鎌倉地方特有の墳墓やぐらには、この時の戦いの戦死者や北条高時の首塚を伝えるものが多い。
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