鎌倉の地獄の風景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
鎌倉では死体を埋葬ないしは放棄するのは、鎌倉中の外、境界の外側であり、後の極楽寺や建長寺の場所が地獄谷と言われていたのはそのためである。名越切通付近にもまんだら堂やぐら群とは別に、死者の埋葬地に建立された鎌倉時代の石廟が二つ残り、古くから葬送の地であったことを伺わせる(画像16)。よく刑場と云われる化粧坂のすぐ傍の瓜が谷やぐら群の1号穴には中央に地蔵菩薩の石像、壁には死後の審判を行う十王らしき四体の神像彫刻がある(画像14)。更にそこから下って北鎌倉駅前の道で出たすぐ左側の橋は十王橋という。従ってこのあたりも葬送の地であったと想像されている。鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、葬送の地だから刑場にも使われるというだけである。処刑した死体はそのまま放置できる。 海側は現在の下馬交叉点の近くまで滑川が入江のようになっており、その先は市街地ではない。現在の一の鳥居が浜の大鳥居と呼ばれたように浜である。その浜もまた埋葬地であり多くの人骨が見つかっている。一つの穴に数百の人骨と牛馬など動物の骨もあり、由比ヶ浜南遺跡からは4000体近い人骨が出土している。人間の大腿骨の端の部分に犬に囓られた跡があったりと、付近に散乱していた骨をだいぶ時間が経ってから集めて埋めたとみなされている。つまり浜にはかなりの死体が放置されていたということである。先に触れた『餓鬼草紙』にあるようにこれは当時としては異様な光景ではない。鎌倉の浜に相当するものは、京においては鴨川の河原である。平安時代初めの842年(承和9年)に朝廷は鴨川河原他に散在する髑髏を焼却させたが、その数は5500余にものぼったという。。
※この「鎌倉の地獄の風景」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「鎌倉の地獄の風景」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 鎌倉の地獄の風景のページへのリンク