まんだら堂やぐら群とは? わかりやすく解説

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まんだら堂やぐら群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 08:07 UTC 版)

名越切通」の記事における「まんだら堂やぐら群」の解説

名越切通脇にある、まんだら堂やぐら群。比較小規模なやぐらが密集している。2014年3月7日撮影。 まんだら堂やぐら群。やぐらの中の石塔散乱していた部品適当に積み直したものが多い。2014年3月7日撮影名越切通東側尾根近くは、崖面に多数のやぐらが3段4段重ねて掘られている。この近辺のみでその数は150以上確認されており、鎌倉周辺地域でも有数大規模やぐら群となっている。 「まんだら堂」という地名文禄3年1594年)の検地帳初め確認できるが、当時すでに地名として残っていたのみで、どのような建物であったかは判っていない。 戦後、このやぐら群のある土地法華経行者が「妙行寺」の名で庵を結び、あじさい畑を育てていたが、死後閉鎖された。その後逗子市一帯私有地買い取り名越切通しから大切岸までも含め歴史公園として整備する計画進めている(2014年2月現在)。 まんだら堂跡に関しては、整備進め過程数度発掘調査が行われている。調査結果、やぐらの多く掘られた崖面は、尾根の頂近く残して大きく岩盤削り込んで作られ人工的なもので、その過程発生した残土前面斜面盛土行い平場広げていることが確認された。やぐら近くでは、平場岩盤長方形の穴を掘り下げ遺体火葬した考えられる跡も複数確認されている。こうして荼毘付され遺骨がやぐらに納められたのではと考えられている。出土遺物から推定すると、やぐら群は鎌倉時代後半13世紀末頃)から造られ始め室町時代中期15世紀)まで使われたものと考えられる平場からは多く小石塔の部品発見されており、この土地の元の持ち主により、やぐらの中に多く石塔組み立てられているが、石塔位置組み合わせは本来とは異なっていると思われる2006年平成18年)度の発掘調査では、尾根上の岩盤コの字形に切り、中央切石敷いた遺構発見され、またその遺構近く斬首されたと考えられる頭蓋骨1個が埋められ土坑発見された。切石遺構石塔基礎とも考えられ斬首された高位の者の供養塔であった可能性もある。 近年は年に数回の特別一般公開が行われてきたが、2014年平成26年)度中を目途に、やぐら群の常時公開目指し整備事業進められている。

※この「まんだら堂やぐら群」の解説は、「名越切通」の解説の一部です。
「まんだら堂やぐら群」を含む「名越切通」の記事については、「名越切通」の概要を参照ください。

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