北条政子
(尼将軍 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 02:32 UTC 版)
北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子[1](たいらの まさこ)、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。子は頼家、実朝、大姫、三幡。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院(あんにょういん)[2]。
注釈
- ^ 坂井は当時の北条時政クラスの武士は側室は持たなかったと指摘した上で、祐親の娘が政子から時房までの子女を生んだ後に死去し、その後で時政は牧の方と再婚したとする見解を取っている[5]。
- ^ 真名本『曾我物語』巻三に「安元弐年丙申三月中半(なかば)のころより、兵衛佐殿は、北条の妃(ひめ)に浅からぬ御志に依て、夜々通はんとせし程に、姫君一人御在(おはしま)す(原文は漢文)」という記述がある[7]。通説では、「安元2年(1176年)3月」より、頼朝が政子の元に通い始めて、やがて姫君(大姫)が生まれたと解釈される[8][9]が、「安元2年(1176年)3月」は頼朝が政子に通い始めた結果、大姫が生まれた時期を指すとする解釈もある[10]。なお、後者の解釈によれば、伊東祐親が頼朝と政子の交際を知ったことが、頼朝と娘・八重姫を引き離して、2人の間の子である千鶴丸を殺害した直接の原因であったとしている[11]。
- ^ 頼朝や頼家・実朝もほとんどは「先武衛」や「将軍家」など、当時の地位を反映した通称で記述される。
- ^ ただし高橋は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子[33]」表記を採る書籍がある。
出典
- ^ 永原慶二監修、貴志正造訳注『新版 全譯吾妻鏡 第二巻自卷第八至第十六』、新人物往来社、358頁(建久十年己未二月大)
- ^ “安養院 - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~”. www.trip-kamakura.com. 2024年1月30日閲覧
- ^ 坂井孝一 2021, p. 42-44.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 48-51.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 50-51.
- ^ 保立道久 2015, p. 311・313(系図).
- ^ 坂井孝一 2021, p. 90-91.
- ^ 坂井孝一 2021, p. 90-95.
- ^ 呉座勇一 2021, p. 26-27.
- ^ 保立道久 2015, p. 309-310.
- ^ 保立道久 2015, p. 307-315.
- ^ 山本みなみ 2021, p. 83.
- ^ 石井進 1974.
- ^ 坂井孝一 2020.
- ^ 永井晋 2000, p. 135-159.
- ^ a b 野村育代 2000, p. 7.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 1–4.
- ^ 吉海直人「北条政子」は本名ではなかった─大河ドラマの基礎知識─、2022年02月08日
- ^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社、2011年、141-142頁
- ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、278頁
- ^ a b c d 高橋秀樹 2004, p. 2.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 2–3.
- ^ 大藤修 2012, p. 83.
- ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、244、252、291-297頁
- ^ 田端泰子 2003, p. 197–199.
- ^ 田端泰子 2003, p. 196.
- ^ 五味文彦 2007, p. 28.
- ^ 山田孝雄 1932, p. 516.
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 3.
- ^ 山路禰吉 1912, p. 497.
- ^ 本多浅治郎 1913, p. 267.
- ^ a b 高橋秀樹 2004, p. 4.
- ^ 雄山閣編集局編 1932, p. 3.
- ^ 渡邊幾治郎 1940, p. 124.
- ^ 洞富雄『庶民家族の歴史像』校倉書房、1966年、183頁
- ^ 高橋(1966)15-16頁
- ^ 井戸田博史『氏と名と族称 その法史学的研究』法律文化社、2003年、105頁
- ^ 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文芸春秋、1998年、86頁
- ^ 高橋秀樹 2004, p. 18.
尼将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:15 UTC 版)
実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。 承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。 政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。 軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。 後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。 貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。 だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[要ページ番号]。 泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。 嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。
※この「尼将軍」の解説は、「北条政子」の解説の一部です。
「尼将軍」を含む「北条政子」の記事については、「北条政子」の概要を参照ください。
- 尼将軍のページへのリンク