伊賀氏とは? わかりやすく解説

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伊賀氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/21 04:32 UTC 版)

伊賀氏
三つ藤巴
本姓 藤原氏秀郷流
家祖 伊賀朝光
種別 武家
華族男爵
主な根拠地 甲斐国岩間牧
常陸国塩籠荘・大窪荘
陸奥国好島荘
若狭国日向浦・谷田寺
但馬国広谷荘
備前国
著名な人物 伊賀朝光
伊賀の方
伊賀光季
伊賀光宗
北条政村
伊賀家久
伊賀久隆
伊賀陽太郎
伊賀氏広
支流、分家 美濃安藤氏
飯野氏
山内氏土佐藩家老
凡例 / Category:日本の氏族

伊賀氏(いがし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけての日本氏族である。

出自

藤原秀郷の子孫とされ、伊賀朝光承元4年(1210年)3月に伊賀守に任じられて以降、伊賀氏を称した。

略歴

鎌倉時代

伊賀朝光二階堂行政の子と言われ、鎌倉幕府では宿老として活躍した。朝光の娘・伊賀の方北条義時正室となって後の執権北条政村を出産。朝光の嫡男光季承久3年に京都守護となり、承久の乱では上皇側に味方し戦死した。次男光宗政所執事となったが、義時の死後に謀って将軍藤原頼経を廃して一条実雅を擁立しようとしたが失敗。伊賀氏の変を引き起こした。後に帰参を許され、評定衆となった。その後伊賀氏は、鎌倉幕府滅亡後に足利氏に接近して海道検断職となり、奥州に移住した一派は飯野氏を称して豪族になった。

戦国時代

戦国時代に入ると、伊賀久隆津高郡虎倉城を拠点として活動を始めた。最初は尼子氏の傘下にあったが、後に宇喜多氏の傘下に入った。永禄12年(1568年)には宇喜多直家に加勢して松田氏を攻略、津高郡北部のほか上房郡南部、真島郡南部を領有し、備前国進出をめざす毛利氏に対する宇喜多勢の最前線を守った。天正2年(1574年)の備中兵乱では出陣し、備中松山城三村元親の嫡子・勝法師丸を生け捕って小早川隆景へ引き渡し、同6年(1578年)には毛利氏の上月城の戦いに宇喜多勢の有力武将として出陣した。同8年(1580年)4月、上房郡竹庄から備前へ進出してきた毛利勢と虎倉城西麓で戦い、毛利勢を撃退したが、同9年(1581年)に讒言により毛利氏への内通の嫌疑をかけられ、久隆は直家に毒を盛られ虎倉城へ逃げ帰ったが、毒が原因で死亡した。久隆の子・伊賀家久は宇喜多氏から離反し虎倉城に篭城したが、毛利氏を頼って逃亡した。その後小早川隆景に属した。

伊賀氏のその後

天正13年(1584年)2月に家久は毛利輝元からに新たに300石が与えられ、天正15年(1587年)、隆景が筑前名島に移封されると、それに従って同地へと渡り、間もなく痢病により没したという[1]。家久の死後、伊賀氏には家を継ぐ男児は無かったが娘が居たため、輝元は井原元歳にこれを娶らせて家久の遺領を引き継がせたと『大日本史料』にはある。

しかし、『萩藩閥閲録』によれば没年は文禄3年(1594年)の事であり、幼少の嫡子才法師を残して死んだといい、才法師の行く末を案じた母方の祖父である明石行雄が当時の筑前名島の領主である小早川秀秋の家老である山口宗永に宛てた書状が収録されている。 伊賀陽太郎伊賀氏広らは伊賀氏の子孫であるが、氏広は本来の伊賀氏と血縁的な関係は無い(氏広は山内氏からの養子)。

系譜

参考文献・サイト




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