一条実雅とは? わかりやすく解説

一条実雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 09:59 UTC 版)

一条 実雅(いちじょう さねまさ、建久7年(1196年) - 安貞2年4月1日1228年5月6日))は、鎌倉時代初期の公卿藤原北家頼宗流、権中納言一条能保の三男。官位従三位参議。伊予宰相中将と号す。

経歴

姉婿である太政大臣西園寺公経猶子となる。

建仁3年(1203年従五位下叙爵し、建永元年(1206年侍従に任官する。建保5年(1217年伊予守に任じられ、翌建保6年(1218年)には左近衛少将を兼ねたことから、伊予少将と呼ばれた。

同年に鎌倉幕府将軍源実朝左近衛大将拝賀に供奉するために鎌倉に下向。拝賀後もそのまま鎌倉に住み、建保7年(1219年)1月には実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従してその暗殺を目撃した。その後、姉の孫にあたる三寅(後の九条頼経)が次の鎌倉殿に決まったため、三寅の鎌倉下向に京より供奉する。承久元年(1219年執権北条義時の娘を妻に迎え[1]、承久2年(1220年)妻が男子を[2]、承久4年(1222年)には女子を出産している[3]

この間、承久元年(1219年正五位下、承久2年(1220年従四位下・右近衛中将、承久3年(1221年)従四位上と近衛次将を務めながら昇進を重ねる。承久3年(1221年)に発生した承久の乱には鎌倉在住のために参加せず、兄弟の信能尊長と異なり処罰を逃れている。承久4年(1222年)には在関東のまま参議に任じられ公卿に列した。三寅の側近かつ義時の婿との立場から幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自に軍事訓練をするなど、幕府内に一定の勢力を築いた[4]

ところが、元仁元年(1224年)妻の母である伊賀の方とその兄の伊賀光宗が、義時の死後に後継者として伊賀の方の息子の北条政村を擁立し、実雅を三寅に代わる新将軍に立てようとしていた策謀が発覚(伊賀氏事件)。実雅は妻と離別の上で京都へ送還され、改めて越前国配流された。

一方で、伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、北条政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため、伊賀氏事件は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すためのでっち上げとする説もある[5]。なお、実雅の妻だった義時と伊賀の方の娘は、嘉禄元年(1225年)11月以降に公家の唐橋通時と再婚している[6]

安貞2年(1228年)4月1日に実雅は配流先で死去。『尊卑分脈』では「河死」、『公卿補任』では「沈河死去」とあり、幕府の命令により殺害された可能性もある[7]

官歴

公卿補任』による。

系譜

  • 父:一条能保
  • 母:家女房(藤原有恒の娘)
  • 妻:北条義時の娘
    • 男子
    • 女子
  • 生母不明
    • 男子:一条実顕

脚注

  1. ^ 吾妻鏡』承久元年10月20日条
  2. ^ 『吾妻鏡』承久2年8月6日条
  3. ^ 『吾妻鏡』承久4年2月12日条
  4. ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、31-32頁。ISBN 978-4-86602-090-7 
  5. ^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年。 
  6. ^ 『明月記』嘉禄元年11月19日条
  7. ^ 『朝日日本歴史人物事典』

参考文献





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