「尼将軍館」での板額
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 09:13 UTC 版)
「和田合戦女舞鶴」の記事における「「尼将軍館」での板額」の解説
二段目の門破りでは怪力無双を誇った板額であったが、三段目の尼将軍政子の館ではそれとは違った面を見せることになる。息子の市若を、善哉丸こと公暁丸の身代りにさせる場面である。板額が11歳の息子を死なすように仕向けるくだりは、現在の幼い子を持つ母親なら目を覆いたくなるようなむごさであろう。しかしでは、板額はただ「忠義」の二文字に従って、わが子を死に追いやったに過ぎないのかというとそうではない。 板額はじつは、息子には甘い母親として原作では描写されている。三段目で鎧兜を着た御家人の子供たちを板額はすかして帰すが、それというのも「我が子の来ぬが不思議さに。当てなき事を引延ばす。思ひは親の因果かや」、つまりその場に来なかった市若に、手柄を取らせてやりたいという思いが働いた上でのことだとしているのである。またそのあとで市若が来たときにも、市若が「私にばっかり手柄さし、名を上げさして下され」というのを聞いても、「オオよふ言やった。そなたに手柄させいで誰にさせう。フムウさすが母が産んだ子、阿佐利与市が胤程有る…」などと言ってあげくは館の内に引き入れる。御家人の子供たちは誰も付き添わず来てそのまま帰ったのに、市若一人のこのことあとから来て、自分ばかりに手柄をさせてくれというのだから、親ならば本来叱るべきところであろう。 一方、上のあらすじでは略したが三段目尼将軍館の段の最初には、平太の妻綱手と板額がちょっとした口論をする場面があり、その中で板額は綱手に向かって次のように言う。 (板額)「…さ程のそもじが何故に、子まで引き連れ尼君を、頼みてさもしき命乞ひ…まこと口ほど健気なら公暁を刺し殺し、その身も自害したがよい。兎角命は惜しいもの」 のちに板額は公暁丸がじつは善哉丸だと政子から聞かされるのであるが、その前にも「急ぎ(公暁丸の)首討ってお渡しあれば、法も立ち道も立つ」と言っている。 板額のいうことは、当時においては間違ったものではない。主殺しは当時大罪であり、平太が将軍の妹をおのれの身分もわきまえず横恋慕して殺したという以上、その妻や子も処刑されるほどの重い罪科が加えられるべき事件である。つまり公暁丸が死ぬことは何であろうと、避けられぬことであった。だがその公暁丸とはじつは善哉丸だったのである。平太の子の公暁丸が罰せられるのは誰もが守るべき「法」によると主張するならば、お主にあたる善哉丸がみすみす殺される難儀を見て見ぬふりをすることも、家臣としての「道」にもとることであり許されない。要するに「法」や「道」を立てるためには子供でも死なねばならぬというのであれば、それは自分の子であろうとも異論なく受け入れなければならないということを、板額は結果として自ら口にし、自らを縛ることになったのである。 その後に板額が、平太が館に来たと偽って市若を死なせたのも、板額の切羽詰った心情を現しているといえる。板額がわが子市若による身代りを心に決めた時、次にすべきことはその市若に、身代りとなって死ぬことを言い聞かせることであった。だが板額はそうはしなかった。その理由は、上で述べた板額の性格とあわせて素直に考えれば、「親としての甘さ」である。お主のために身代りとなることを市若に聞かせて、もし「死ぬのはいやだ」と聞き分けずうろたえたりしたらどうしよう。そうなっては武士の子として、見苦しい最期を遂げさせることにもなりかねないが、親として言い聞かせる自信がない。かといってわが子にいきなり刃を当てることもできない。板額が市若に「もしおまえが平太の子だったらどうするか」と聞いたのは、もはや市若に言い聞かせることをあきらめ、息子を騙すしかないと思い詰めてのことであった。そして市若は切腹する。結局一番うろたえたのは、ほかならぬ板額自身である。 勇猛で怪力無双の女ならば、わが子が忠義のために死ぬのも厭わないだろうと思いのほか、板額はなによりもわが子を思う母親であり、思うがゆえにわが子を騙して死なすことになった。その性格はじつはか弱いともいえるものであり、二段目で門を破り大暴れする姿と、三段目でそうした性格を見せる落差は、身代りの悲劇をより深めている。この板額と市若のほかにも、四段目では綱手が強欲な自分の両親を、親であるがゆえに訴えられない、しかしそれではお主に対してすまないと苦しむ場面があり、三段目においても将軍実朝が、「孝」と「法」をはかりにかけて思い悩む場面がある。この『和田合戦女舞鶴』は、親子の関係を通して世間の掟や義理に苦しむ人々の姿を描いているともいえよう。
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