黄瀬川の対面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 04:10 UTC 版)
合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。後に義経はもう一人の兄範頼とともに木曾義仲討滅、平家追討の指揮をとり、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで勝利し、そして壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことになる。 『平治物語』によれば、頼朝と義経が対面したのは頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)となっている。また、平氏は富士川河畔に布陣したと記述があるが、頼朝は黄瀬川に到着したとあるのみで、甲斐源氏の布陣地については記述がない。
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