鎌倉・京への両属とは? わかりやすく解説

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鎌倉・京への両属

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 02:48 UTC 版)

大内惟義」の記事における「鎌倉・京への両属」の解説

正治元年1199年)、頼朝死去した直後起こった三左衛門事件では、首謀者後藤基清らを拘束して院に引き渡した(『明月記2月14日条)。正治2年1200年正月6日鎌倉椀飯沙汰人務めるが、同月24日には京都梶原景時与党追捕命じられ2月26日には2代将軍源頼家鶴岡八幡宮参詣御後筆頭として随行するなど、京都鎌倉頻繁に往復していた様子うかがえる『吾妻鏡』ではその後しばらく所見しなくなり、建暦2年1212年3月20日在京奉公の労により地頭職拝領したとあるので、在京して鎌倉と京の連絡役を務めていたと思われるこの間元久2年1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍担がれ異母弟平賀朝雅北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件連座せず朝雅が有していた伊勢伊賀守護引き継いだ。なお『吾妻鏡』建暦2年1212年7月7日条には「駿河前司惟義」とあり、これ以前相模守から駿河守遷任していた。建保元年1213年8月3代将軍源実朝移徙では、執権北条義時次位として随行している。 惟義は幕府から伊勢伊賀・越前・美濃丹波摂津など近畿6ヶ国の守護に任命される一方在京御家人代表として後鳥羽院近侍して朝廷との接触深めていった。この時期には源氏一門抑えて北条氏幕府内での覇権確立しつつあり、後に跡を継いだ大内惟信行動後述)から推測して、「心情的に朝廷方へ荷担する意図があった」と見る向きもある。 建保7年1219年正月27日実朝右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮へ御参した際(この日、実朝暗殺される)の『吾妻鏡』記事中に「修理権大夫義朝臣」の名が見えるが、以降消息不明この年もしくは翌年死去したものと思われる承久3年1221年)、承久の乱勃発後鳥羽院京方挙兵対し、惟義の死後近畿6国守護職受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息絶ち、ここに源氏御門葉平賀大内氏滅亡する後鳥羽院が惟義を尊重した理由一つ来るべき討幕の日のために歴戦武将である惟義を味方に付けておきたいという思惑があったと考えられる。もし、承久の乱若年の惟信ではなく惟義が朝廷軍率いていたならば、戦況はまた違ったものになっていた可能性もある。

※この「鎌倉・京への両属」の解説は、「大内惟義」の解説の一部です。
「鎌倉・京への両属」を含む「大内惟義」の記事については、「大内惟義」の概要を参照ください。

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