日本史での反論
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安産祈祷が幕府調伏の隠れ蓑であるという『太平記』説に対し、2007年、日本史研究者の河内祥輔は異議を唱えた。 皇位継承において、旧説では後醍醐天皇が「一代の主」(子孫が皇位につくことを許されない天皇)というきわめて弱い立場にあったとされるが、河内は「一代の主」説は政敵である持明院統由来の文書にしか見られないことを指摘した。そして、後醍醐父の後宇多院による「徳治三年後宇多処分状」を素直に読む限り、後醍醐は実際には大覚寺統の「准直系」程度の待遇は許されていたのではないか、と主張している。しかしそうはいっても、大覚寺統正嫡である甥の皇太子邦良親王の系統に比べれば、相対的に皇位継承で弱い立場だった。 正中3年(1326年)3月、後醍醐の最大の政敵の一人ともいえる皇太子の邦良が薨去し、7月には後任の皇太子として持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)が立てられた。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、後醍醐の子孫から天皇を出すことができる目算が以前よりも大きくなってきた。 それまでの後醍醐の皇子たちは母方の血統的に、直系を担うには難しい者たちばかりであった。しかし、ここにもし実力者である西園寺実兼の娘である禧子との間に皇子が誕生すれば、邦良派に替わることができる強力な皇嗣となるのではないか、と考えたのであろうという。このようにして見れば、禧子の出産自体が強力な政治的カードなのだから、『太平記』説のような幕府調伏ではなく、本当に御産祈祷であると考える方が自然である。 事実、禧子への祈祷は邦良薨去の3か月後から始まっており、4年間も続いてる。河内の推測によれば、これは「安産祈祷」というよりは「懐妊祈祷」なのではないかという。しかし、結果から見れば祈祷は功を奏すことなく、しかも幕府から調伏の儀式の疑いを誤解でかけられてかえって首を絞めてしまったのではないか、という。 なお、河内はいわゆる「正中の変」で後醍醐は公式判決通り本当に冤罪であり、その時点で倒幕計画は立てていなかったという主張をしている。これと御産祈祷が本当に御産祈祷だったという説を合わせ、後醍醐天皇は、元弘の乱の前年である元徳2年(1330年)ごろまで、倒幕は考えていなかったのではないか、としている。 以上の河内説は、2010年代後半に入り、亀田俊和が大枠で積極的に支持しており、呉座勇一も旧説よりも正しい可能性は相当に高いとしている。
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