日本史での反論とは? わかりやすく解説

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日本史での反論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「日本史での反論」の解説

安産祈祷幕府調伏隠れ蓑であるという『太平記』説に対し2007年日本史研究者河内祥輔異議唱えた皇位継承において、旧説では後醍醐天皇が「一代の主」(子孫皇位につくことを許されない天皇)というきわめて弱い立場にあったとされるが、河内は「一代の主」説は政敵である持明院統由来文書にしか見られないことを指摘した。そして、後醍醐父の後宇多院による「徳治三年後宇多処分状」を素直に読む限り後醍醐実際に大覚寺統の「准直系程度待遇許されていたのではないか、と主張している。しかしそうはいっても、大覚寺統正嫡である甥の皇太子邦良親王系統比べれば相対的に皇位継承で弱い立場だった。 正中3年1326年3月後醍醐最大政敵一人ともいえる皇太子の邦良が薨去し、7月には後任皇太子として持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)が立てられた。これによって邦良派は大きな打撃受けたため、後醍醐の子孫から天皇を出すことができる目算以前よりも大きくなってきた。 それまで後醍醐皇子たちは母方血統的に直系を担うには難しい者たちばかりであった。しかし、ここにもし実力者である西園寺実兼の娘である禧子との間に皇子誕生すれば、邦良派に替わることができる強力な皇嗣となるのではないか、と考えたであろうという。このようにして見れば、禧子の出産自体強力な政治的カードなのだから、『太平記』のような幕府調伏ではなく本当に御産祈祷であると考える方が自然である。 事実、禧子への祈祷は邦良薨去の3か月後から始まっており、4年間も続いてる。河内推測によれば、これは「安産祈祷」というよりは「懐妊祈祷」なのではないかという。しかし、結果から見れば祈祷功を奏すことなく、しかも幕府から調伏儀式疑い誤解でかけられてかえって首を絞めてしまったのではないか、という。 なお、河内いわゆる正中の変」で後醍醐は公式判決通り本当に冤罪であり、その時点で倒幕計画立てていなかったという主張をしている。これと御産祈祷本当に御産祈祷だったという説を合わせ後醍醐天皇は、元弘の乱前年である元徳2年1330年)ごろまで、倒幕考えていなかったのではないか、としている。 以上の河内説は、2010年代後半入り亀田俊和大枠積極的に支持しており、呉座勇一旧説よりも正し可能性は相当にいとしている。

※この「日本史での反論」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「日本史での反論」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

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