日本史における容共とは? わかりやすく解説

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日本史における容共

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 00:25 UTC 版)

容共」の記事における「日本史における容共」の解説

1920年日本社会主義同盟結成されたが、1925年には反共社会民衆党と、容共労働農民党分裂したその後戦争体制が進むにつれ、労働農民党1928年結社禁止され、社会民衆党から変わった社会大衆党1940年大政翼賛会合流した日本社会党は、戦前社会大衆党労働農民党合流して出帆したが、1953年サンフランシスコ講和会議においてソ連中華人民共和国などの共産主義国家除いた多数講和か、それらを含めた全面講和か(=共産主義対す見解の相違)で、右派社会党左派社会党分裂した1955年に両派は合同するものの、僅か5年後1960年には日米安全保障条約条件付賛成右派民主社会党結成し(=共産主義対す見解の相違)、更に改称した民社党は、自由民主党以上に容共攻撃した朝鮮戦争以降反共最前線置かれ韓国では、歴代軍事政権容共(親共とも)である者はすなわち共産主義者であるとの立場取り共産主義積極的に反対しない者を取り締まり対象にした。 日本社会党社共共闘積極的な容共派や社公民路線目指す反共派、そして日本共産党含めた全野共闘積極的な勢力まで多様な勢力共存していた。しかし、1980年社公合意により日本社会党事実上反共派が主導権握り日本社会党後継政党である社会民主党は「社会民主主義」を強調し反共立場明確にした。容共派は、新社会党結成し共産党公認候補推薦する(=既に党内反共派に気兼ねする必要がない姿勢打ち出したが、共産党には共闘拒絶されており、国政では国会の全議席喪失した。 これについて、保守系マスコミは、「従来日本社会党は、共産主義の距離の取り方に苦労してきた」と社民党路線転換歓迎した社民党共産党国政では共闘することもあるが、沖縄県以外の地方政治では自民党などと組んでオール与党一翼担い共産党対立することが多い。 「がんばろう、日本!」国民協議会(旧「民主統一同盟」)は、共産党中心とした民主的統一戦線訴え青島幸男容共議員名指し[要出典]した。しかし、現在「国民協議会」は反共親米保守転じている。 また、小沢一郎思想的には反共であるが、民主党代表であった当時選挙での勝利のためには共産党との協力あり得るという見解示した。これに対し保守系メディアは「小沢共産党すら利用するヒトラーか」などと題し、その容共批判した2016年から民進党社民党自由党といった野党各党が日本共産党と「野党による共闘と言う形で選挙協力開始した2017年民進党希望の党立憲民主党分裂し共闘体制前者とは破綻後者継続となり反共容共別れることになった2018年希望の党国民民主党と新希望の党分離し前者市民連合との協議応じ共産党との共闘再開した

※この「日本史における容共」の解説は、「容共」の解説の一部です。
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