選挙での勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:22 UTC 版)
1977年5月のクネセト選挙では、与党の汚職の影響もあり一部支持者はイガエル・ヤディン(Yigael Yadin)率いる中道政党ダッシュ(Dash)に移り120議席中15議席を獲得した。一方労働党連立与党は51議席をさらに32議席に減らし、ベギン率いる右派リクードは43議席を獲得し、最大与党となった。これは、それまで労働党の支持層だったマルクス主義的社会主義思想を持ったアシュケナジムに取って代わり、リクードを勝利に導いたミズラヒと保守的な宗教勢力の躍進、自由経済主義への転換というイスラエルの構造改革をも意味していた。リクードの政治的躍進はベギンの人柄も大きく影響していた。対立政党からは全体主義や独裁と批判されながらも、彼の質素で敬虔な部分はそれまでの与党にないがしろにされてきたと感じる人々にとっては心を打つものだった。 リクードの圧倒的な勝利であったが、それでも議席を獲得して政治を掌握したいと考えていたベギンはさらに他の右派政党や超正統派の政党、小規模中道派政党などに連立を呼びかけ続けた。オファーは労働党時代の国防大臣でヨム・キプールでの失策を攻められていたモシェ・ダヤンにも及んだ。6月20日の政権樹立後、奪取も連立政権に取り込み、最終的に与党はクネセトの3分の2を占める議席まで拡大した。 1978年モシェ・ダヤンを外務大臣、エゼル・ヴァイツマンを国防大臣に迎え、キャンプ・デービッド合意に臨んだ。1979年、アメリカ大統領ジミー・カーターの仲介のもとエジプト大統領サダトとエジプト・イスラエル平和条約を取り決め、シナイ半島をエジプトに返還することで同意する。これにより今までの無責任なナショナリストというベギンの国際的イメージは変化し、1978年には彼はサダトとともにノーベル平和賞を受賞した。 これに対しシナイの地を手放すことに大イスラエル主義(「約束の地」の範囲を元々イスラエルのものと捉える思想)を標榜するリクード内右派は激しく反発、中でもイツハク・シャミルは協定が批准されれば辞職すると主張した。クネセト内でも小規模政党を除いて協定の批准に反対する意見が多数を占めた。キャンプ・デービッドでの合意内容の実行を固く決めたベギンは、当時農水相のアリエル・シャロンにイスラエル領内のパレスチナ人の居住区をシナイ半島からの帰還者の入植地とするためヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ自治区を定めさせた。ベギンは聖書に基づく入植地としてナーブルス周辺に帰還ユダヤ人を定住させた。
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