選挙での「敗北」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 22:24 UTC 版)
「ポーランド農民党」の記事における「選挙での「敗北」」の解説
しかし、逮捕や尋問・活動妨害などの行政的圧力、党青年組織「青年闘争同盟(Związek Walki Młodych)」を動員した大衆扇動など労働者党による弾圧により農民党の選挙活動は困難を極めた。1947年初頭には選挙区候補者147名、全国区候補者15名、地方活動家約2000名が投獄された。また全国52選挙区中10選挙区における農民党候補者リストが無効を宣告されたことで、全有権者の2割以上が4党ブロックか農民党かという選択権を失う結果となった。こうした中で行われた47年1月19日の総選挙は、4党「民主ブロック」が得票率80.1%で394議席(うち労働者党114・社会党116・ルブリン農民党109・民主党41・その他14)を獲得して「圧勝」、農民党は得票率10.3%で28議席に留まり、決定的な打撃を受けた。そして選挙ブロックへの加入を支持していたヴィツェフ(Czesław Wycech)が公然とミコワイチクを批判し初め、党を追放されたヴィツェフらは4月2日にポーランド農民党「左派」(PSL-Lewica)を結成した。選挙後再び、逮捕や尋問、家宅捜査、国民評議会や国家機関からの排除が敢行された結果、5月頃までに農民党は活動停止状態に追い込まれ、身の危険を感じたミコワイチクは10月に英米両国大使館の手を借りてポーランドを脱出した。
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