社会党右派
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社会党右派(しゃかいとううは)は、旧日本社会党の中道左派グループ。一般にソ連・中国型の社会主義や革命を志向せず、西欧型の社会民主主義を模範とした勢力を指す。
- ^ a b “日本大百科全書(ニッポニカ) - 日本社会党”. コトバンク. 2021年10月23日閲覧。
- ^ Junnosuke Masumi, ed (2022). Contemporary Politics in Japan. Univ of California Press. p. 313. ISBN 9780520332782 . "The first congress of the Right Socialist Party, held in January 1952, the year following the party's formation, raised the banner of "democratic socialism" and declared that the Left Socialist Party, led by a group of procommunists, would degenerate into "the puppet force of the JCP" within a few months."
- ^ 『画報現代史 補巻第15集』国際文化情報社、1957年10月15日。
右派社会党
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片山・芦田政権の瓦解とその評価をめぐり、社会党が数度の分裂を繰り返す中、1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約の賛否をめぐり、社会党は分裂した。講和条約賛成・安保条約反対派は、便宜的に「右派社会党」と呼ばれた(略して“右社”)。左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。当初、委員長は空席とされ、書記長に浅沼稲次郎が就任した。後に、公職追放を解除された河上丈太郎が委員長に就任した。この混乱期に、軍国主義と決別しつつ再軍備も選択肢にあった日本社会党の安全保障政策が、反軍備を中心に位置づけられていく。 公職追放の終了にともない、1952年総選挙から日本労農党系(河上派)が政界復帰し、右派社会党に合流するが、党組織の整備も不十分で、知名度の高い各地の政治家が個人後援会的に選挙活動を展開する状況だった。一方の左派は、日本共産党の指導から脱した労働運動を基盤に組織的選挙を展開した。そのため、「顔の右社」などと呼ばれた。 分裂直後の右派社会党は29議席であったが、1952年(昭和27年)の総選挙で57議席に増え、1953年(昭和28年)の総選挙ではさらに66議席に増え、1955年(昭和30年)の総選挙では67議席となった。1955年(昭和30年)10月13日、河上派と鈴木派の執念で左右社会党は再統一した(社会党再統一)。右社委員長の河上は社会党顧問となり、浅沼は統一した社会党の書記長となった。 この時期の主な政治家は、左右分裂までの西尾派に加え、以下のとおり。 河上丈太郎 - キリスト教社会主義の立場で神戸で救貧活動をスタート。日本労農党の中心的な存在で、自らの戦争責任を認めた上で、平和運動に邁進した。 浅沼稲次郎 - 早稲田大学新人会の学生運動からスタート。日本労農党では、最も新体制運動を推進した麻生久を尊敬しており、その贖罪意識が、戦後の政治行動に影響を与える。組織を重んじ、人脈の維持形成に尽力してきたことが戦後の社会党の再建に功を奏する。 三輪寿壮 河野密 春日一幸 - 反共主義を重んじ、アウグスト・ピノチェトによるチリ・クーデターに賛成。日本共産党を敵視し、治安維持法を容認したうえで宮本顕治を批判した。 浅沼美智雄 - 稲次郎の遠縁。右翼に転向し、大日本愛国党参与などを務めた。
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