右派粛清とテールマン独裁体制の確立
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「エルンスト・テールマン」の記事における「右派粛清とテールマン独裁体制の確立」の解説
1928年から1929年にかけて粛清が吹き荒れ右派全員(ブランドラー、ベルタ・タールハイマー(ドイツ語版)、パウル・フレーリヒ(ドイツ語版)、ヤコブ・ワルヒャー(ドイツ語版)、ハンス・ティテル(ドイツ語版)、ハウゼンら)が党から除名され、調停派も解任された。これ以降もはやいかなる反対派も党内に存在することは許されなくなり、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させた。組織された反対派が消されたことにより、党内抗争はなくなり、指導部の方針への逸脱は個々の除名、処分によって阻止されるようになった。ここにドイツ共産党はソ連共産党のスターリン体制をそのまま移植したテールマンの独裁政党となったのだった。 またソ連で盛んになりつつあったスターリン個人崇拝に倣ったテールマン個人崇拝も進んだ。この点において共産党は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)の総統アドルフ・ヒトラーにライバル意識を燃やしていた。ヒトラーに対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として対抗させることができるし、させなければならぬと考えていた。
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