河内説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)
日本史研究者の河内祥輔は、『日本中世の朝廷・幕府体制』(2007年)で、『太平記』の討幕説について以下の疑問点を指摘した。 『太平記』は、承久の乱の以降、代々の天皇は討幕を志していたとしているが、その証拠は当時の貴族の日記や文書等には確認されない。 『太平記』では、中宮西園寺禧子の御産御祈が正中の変より前に置かれている。しかし、岡見正雄校注『太平記(1)』(角川文庫、1975年)や百瀬今朝雄の研究により、実際の御産御祈は、正中元年事件の「後」の、嘉暦元年(1326年)以後であることが判明しているため、時系列に矛盾がある。 『太平記』では討幕計画に四条隆資と花山院師賢も加わっていたとされるが、それの証拠となる史料は現存しない。平成輔については、『花園天皇日記』元亨4年10月30日条に、「所労」と称して蔵人頭を辞して「籠居」したことが、花園から不審に思われたことが記されているが、事件への関与は確実ではない。 後醍醐派が無礼講という宴会を行っていたこと自体は、『花園天皇日記』元亨4年11月1日条からも確認されているが、日記には無礼講の時に陰謀の会議があったことは記述されていない。花園が無礼講を非難しているのは、もっぱら風紀・品性の問題であって、討幕に結びつけている訳ではない。そもそも、花園上皇は後醍醐天皇と政治的に対立しているが、無礼講を把握していたにもかかわらず陰謀を知らなかった点や、持明院統方にも知られるほど広く認識された無礼講で陰謀の相談をするのは不自然さがある。 『太平記』では「正中の変」で討ち死にした討幕軍の兵数が大げさに表現されているが、現実に正中元年事件に関わった武士は多治見国長・土岐頼有・土岐頼員のわずか3名であり、これで幕府を倒そうと考えるのは無理がある。 最も重大な点であるが、もし後醍醐が本当に討幕計画を企んでいたのなら、なぜ幕府はわざわざ後醍醐に配慮して無罪としなければならなかったのか。大覚寺統の正嫡ではない後醍醐を退位させるのは幕府にとって簡単であり、しかも朝廷でも大覚寺統正嫡(邦良親王)と持明院統の双方から望まれていることでもあり、幕府が後醍醐に配慮すべき理由は見当たらない。『太平記』は、後醍醐に無罪判決が下ったのは、後醍醐に背いた幕臣斎藤利行(史実の斎藤俊幸)が神罰に当たって血を吐いて死んだので、幕府高官たちが恐怖したから、としているが、あまりにも荒唐無稽に過ぎ、討幕説にまともな論拠がないことを『太平記』自ら告白しているようなものである。そもそも、『常楽記』によれば、史実の斎藤俊幸が死去したのは、この事件が終わった後の嘉暦元年(1326年)5月である。
※この「河内説」の解説は、「正中の変」の解説の一部です。
「河内説」を含む「正中の変」の記事については、「正中の変」の概要を参照ください。
- 河内説のページへのリンク