定房以外の作者候補者推定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)
「正中の変」の記事における「定房以外の作者候補者推定」の解説
もし著者が定房ではないとしたら、いつ誰が「(年月日欠)某奏上覚書」を作成したのかについて、河内は以下の主張を行った。 文書の第10条には、後醍醐の仮想敵として、同じ皇統の大覚寺統内で争った邦良親王は言及されず、持明院統の3代目(後伏見上皇)と4代目が挙げられている。皇位継承順で言えば4代目は花園上皇だが、花園は中継ぎの天皇なので、実際は持明院統正嫡の4代目である量仁親王(後の光厳天皇)の方を指していると考えられる。とすれば、この文書の作成時期は、(正中元年事件の「後」に)邦良が薨去して量仁が立太子された嘉暦元年(1326年)以降となる。 跋文によれば、奏上の原本は後醍醐天皇が所持しているはずだが、噂では「仙洞」(上皇、第10条と照らし合わせるなら、特に後醍醐に敵する持明院統の後伏見)が差し押えてしまったという。覚書の著者は、原本が出てくるのを望んでいるが、それがありそうもないので、旅宿の身ではあるが、必死に原本の内容を思い出してこの覚書を書いたのであるという。このような事態が発生するのは、元弘の乱で後醍醐が京都を離れた元弘元年/元徳3年(1331年)9月以降しかない。つまり、後醍醐出京後、後伏見はその文書を差し押さえた。後醍醐に仕えていた著者は幕府に捕縛され、尋問を受けた。著者は、自分が討幕反対派であり、元弘の乱には潔白であると弁明するために、幕府にこの覚書を提出したのだと考えられる。 「正中の変・吉田定房」説に代わる具体的な比定として、河内は以下の可能性、計8人の候補者を提示している。なお、定房は元弘の乱においては最初の密告者となり、幕府の尋問からは逃れているので、河内説では自動的に候補者からは外れることになる。 奏上原本は1330年に書かれ、奏上覚書は1331年に書かれた。この場合、「旅宿」の条件に当てはまるのは日野俊基(処刑)である。 奏上原本は1331年に書かれ、奏上覚書は1332年に書かれた。この場合、「旅宿」の条件に当てはまるのは平成輔(処刑)・源具行(処刑)・花山院師賢(流刑)・洞院公敏(流刑)・万里小路季房(流刑)・万里小路藤房(流刑)・葉室光顕(流刑)の7人である。
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