呉座説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)
日本史研究者の呉座勇一は、『陰謀の日本中世史』(2018年)で、河内祥輔の議論を認めた上で、『太平記』にさらに以下のような疑問を加え、河内説を補強した。 「宴会で陰謀→非現実的計画→密告により瓦解」という展開は、『平家物語』の鹿ヶ谷事件と酷似している。『太平記』は『平家物語』を下敷きにした話が多いため、これも鹿ヶ谷説話を参考に創作された疑いがある。 根本的な問題点として、もし正中元年事件が討幕計画だったのなら、なぜ次の元弘の乱まで7年もかかったのか、あまりに気長すぎるのではないか。あるいは、一度失敗したから次は7年かけて計略し、準備を用意周到にしようとしたのだ、という反論もあるかもしれない。しかし、元弘の乱は、実際には密告で発覚し、戦闘開始直後に後醍醐勢力はすぐに惨敗して後醍醐は隠岐国に流されており、とても7年もかけたような緻密な計画には感じられない、という。 元弘の乱で後醍醐が実際に鎌倉幕府打倒を成し遂げ、その後に室町幕府と戦うことになるという未来を知っている後世の人から見た場合、「幕府との協調路線を模索していた後醍醐」という現実の姿は、かえって想像しにくい。それよりも、後醍醐は即位当初から討幕に執念を燃やす「非妥協的な専制君主」だった、という風に設定した方が、人生に一貫性があり、頭で理解しやすい。そのため、後世の印象が過去に遡及され、正中元年の事件も討幕計画であるかのように『太平記』で描かれるようになったのではないか、と呉座は推測した。同様の、後世の印象が過去に遡及したという論旨は2017年に亀田俊和も述べている。
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