河内説への反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:35 UTC 版)
以上の河内祥輔の「(年月日欠)某奏上覚書」に対する議論について、呉座勇一は、「正しいとは断言できないが」としつつも、「非常に説得力のある見解」と述べ、少なくとも佐藤進一・村井章介による通説が大きく揺らいだことは確かであるとする。また、仮に村井説の通りに、定房が、後醍醐の討幕計画に改めて釘を刺すために、後醍醐へ宛てて覚書を書いたのだとしたら、京都で書けば良いもののわざわざ「旅宿」で書いたという意味が通らない。そのため、村井の定房作者説には疑問がある、と河内説を補強した。そして、結論として、正中元年の事件では後醍醐は冤罪であり、元弘の乱が最初にして最後の鎌倉幕府討幕運動だった可能性は高い、としている。
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