イスラエルの建国とパレスチナ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 23:33 UTC 版)
「ユダヤ人」の記事における「イスラエルの建国とパレスチナ問題」の解説
詳細は「シオニズム」、「イスラエル」、「中東戦争」、および「パレスチナ問題」を参照 ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズムがさかんになり、1945年にアメリカでユダヤ人抵抗運動(英語版)が組織された。 しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件やイフード運動の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(Fawzi Darwish al-Husseini)暗殺が起こった。1947年11月29日、国際連合でアメリカとソ連などの支持を受けて『パレスチナ分割決議(国連総会決議181号)』が採択されると、11月30日からパレスチナ内戦(英語版)が始まり、1948年4月にはエツェルによるデイル・ヤシーン事件などが起こったが、同年5月14日のイスラエル国建国のイスラエル独立宣言が行われると、翌日の5月15日の第一次中東戦争につながっていった。全パレスチナ政府(英語版)がガザに設置され、アミーン・フサイニーが大統領となると、Killings and massacres during the 1948 Palestine Warが多発した。1949年7月の休戦協定によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプトはガザ地区を獲得し、ヨルダン(1949年6月にトランスヨルダンから名称変更した)は東エルサレムおよびヨルダン川西岸地区を獲得した。 一方、寸土も獲得できなかった全パレスチナ政府が4か月で崩壊すると、1951年にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世を暗殺した。 1952年にエジプト革命が起こり、1953年にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥン=ナーセルはアスワン・ハイ・ダム建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年になってアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスがエジプトへの協力に反対した。 そのためナーセルは東西冷戦を利用してソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義を掲げ、スエズ運河国有化(英: Nationalisation of the Suez Canal)を断行した。当時フランスは、アルジェリア戦争(1954年 - 1962年)でアルジェリア民族解放戦線をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争が勃発した。 アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領は、アラブ冷戦(英語版)下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争につながった。 米国がベトナム戦争でアラブ冷戦(英語版)に手が回らなくなると、ソ連のKGBはイスラエルのモサッドの諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設をめぐる紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年に逆に先制攻撃を行い、第三次中東戦争を開始した。 第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想(英語版)」(1967年 - 1976年)が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。 1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハのヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年にガマール・アブドゥン=ナーセルが急死すると、アンワル・アッ=サーダートがエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固めるために1971年9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦を結成した。1972年4月には、1970年のブラック・セプテンバー事件でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻き込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争が勃発した。石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。 和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル反米路線からの転換を図った。1977年6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン首相を公式訪問し、1978年9月のキャンプ・デービッド合意はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年10月にサーダートはエジプトのジハード団によって暗殺された。 1987年に第1次インティファーダが始まり、1993年にはイスラエルとPLOのオスロ合意によりパレスチナ自治政府が設立され、イスラエルはヨルダン川西岸地区とガザをPLOに引き渡した。
※この「イスラエルの建国とパレスチナ問題」の解説は、「ユダヤ人」の解説の一部です。
「イスラエルの建国とパレスチナ問題」を含む「ユダヤ人」の記事については、「ユダヤ人」の概要を参照ください。
- イスラエルの建国とパレスチナ問題のページへのリンク