イスラエルの政治家として
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「ゾラフ・バルハフティク」の記事における「イスラエルの政治家として」の解説
戦争が終わった後、バルハフティクはポーランドに一時帰国するが、ワルシャワは見渡す限りの廃墟で、元あった建物は跡形もなく無くなっていた。また現地では未だに強い反ユダヤ感情が残っており、ユダヤ難民の帰還を拒否していたという。 1947年8月、彼はパレスチナに渡り、1948年から1963年までエルサレムのヘブライ大学でユダヤ法学を教えている。また彼はハポエル・ハミズラヒ(英語版)(ミズラヒ労働者党、宗教的シオニズムの政党)に参加、47年から48年の間、ユダヤ民族評議会のメンバーとして、イスラエル建国に尽力し、独立宣言の署名者の一人に名を連ねている。 独立後の1949年の第1回クネセト選挙ではミズラヒ、ハポエル・ハミズラヒ、アグダット・イスラエル(英語版)(イスラエル連合)、アグダット・イスラエル・ワーカーズ(英語版)(イスラエル労働者連合)が提携して出来た統一宗教戦線(英語版)の一員として選挙を戦い、当選する。 1951年の選挙ではハポエル・ハミズラヒ単独で選挙戦を戦う。選挙後、ダヴィド・ベン=グリオン内閣入りし、バルハフティクは第4次内閣で宗教副大臣に任命される。1956年、ハポエル・ハミズラヒとミズラヒは合併し国家宗教党(英語版)となる。バルハフティクは第3期クネセトが終わるまで、党としての業務、副大臣としての業務を兼任した。 1961年の選挙(第5回クネセト選挙)の後、バルハフティクは宗教大臣に任命され、1974年まで務める。任期中の1969年、エルサレムを訪れた杉原千畝と29年ぶりの再開を果たしている。バルハフティクは杉原の諸国民の中の正義の人の受賞の為に尽力し、1985年に受賞が実現した。1981年クネセト議員を引退。 1992年、来日し、杉原夫人らとともに人道の丘公園の開園式に参加している。 2002年、死去。
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