予備役編入後
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この年、商工省では財界出身で資本主義を自ら体現するような大臣・小林一三と、同省生え抜きの新官僚で統制経済を国家百年の計として標榜する次官・岸信介が対立していた。岸はやがて企画院事件が発生するとその責任をとって次官を辞したが、その後は軍部と結託して小林に一矢報いることに奔走。年が明け、岸が同事件に関連して大臣にも軍事機密漏洩の責任があると公言するに至って、小林もまた大臣を辞めざるを得なくなった。近衛はこの小林の後任に豊田を推した。しかし現役の海軍中将である豊田がつとめることのできる閣僚は、海軍軍政を司る海軍大臣のみである。豊田は熟慮の上で、ここは海軍現役を退いて商工大臣を引き受けようと決断した。しかし転んでもただでは起きないのが豊田である。4月4日、登庁した豊田は自らの大将進級を条件に次官を依願退職するという前代未聞の辞表を及川に提出し周囲を唖然とさせた。及川はこの辞表を受理せず、豊田を大将に進級させた上で即日予備役に編入して決着を見たが、この政界転向には、普段は人の陰口など叩かない古賀峯一をして「豊田さんは出世のために海軍を踏み台にしたんだ」と言わしめるほど、省内の誰をも落胆させるような転出だった。しかし当の豊田にとっても「つい懐かしくて用もないのに海軍省の前に来てしまうことも多々あった」と後任次官の沢本頼雄に吐露するほど、不本意で後味の悪い幕切れだった。 しかし閣内で暴走する外務大臣・松岡洋右に業を煮やした近衛は、松岡に大臣辞任を迫れば逆に閣内不一致で内閣が倒れると判断、機先を制して全閣僚から辞表を取り付けると急遽参内していったん内閣総辞職し、その場で改めて組閣の大命を受けて今度は松岡抜きの第3次近衛内閣を組織した。近衛はこの松岡の後任の外務大臣に、わずか3か月前に商工大臣に就任したばかりの豊田を横滑りさせるという。かつて三国同盟の締結に関する責任をなすり付けた外務省の所轄大臣となることにはさすがに気が引けて豊田は再三これを固辞したが、海軍の先輩であり同郷でもある駐米大使・野村吉三郎との連携がうまくいくことを期待した近衛に押し切られた。これ以後豊田は東京にあって、ワシントンで日米交渉を続ける野村・来栖両大使を支えた。豊田は近衛が訪米、ないしハワイを訪問してアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと直接会談を行うという秘策をもって交渉を進めたが、そうした外交交渉の傍らで開戦準備を同時に進める日本の姿勢を警戒したアメリカは、次第に外交交渉そのものが実は開戦準備の一環としての空芝居なのではないかという疑念を募らせていく。結局二国間の主張は平行線を描くのみで進展がなく、これに近衛も嫌気して結局内閣を放り出すこととなった。外務大臣も在任約6か月で辞職した。 その後間もなく豊田は日本製鐵の社長に招聘された。海軍時代から関心があった鉄鋼増産の現場にようやく立つことができた。製鉄労働者不足のために1941年(昭和16年)下半期から1942年(昭和17年)上半期にかけて鉄鋼生産が減少しており、克服のために鉄鋼統制会が結成され、豊田が会長に就任した。小学校卒業生や朝鮮人労働者の就労強化策、または離職防止策、福利厚生の充実化を推進した。これにより労働力の確保には成功したものの、やがて戦局の悪化によって原料の確保が困難になり、鉄鋼生産力は減少の一途をたどる。 しばらく政治から離れていたが、1943年(昭和18年)3月、東條内閣より内閣顧問として招聘された。軍需物資の陸海軍配分比率で陸海軍が激しく対立しており、打開策を求められたものの、豊田の思惑通りには進まなかった。豊田が再び閣僚となるのは鈴木内閣の時で、軍需大臣と運輸通信大臣を兼摂したが、もはや生産基盤は破壊し尽くされており、豊田に打つ手はなかった。 鈴木貫太郎内閣最後の御前会議でのエピソード 昭和20年(1945年)8月14日の午前8時、鈴木貫太郎首相の奏請という形で、その日の午前10時から、急遽最後の御前会議が開催される事に決まった。当時は真夏であり、宮中参内等の特別な行事でもない限り、閣僚の中には軽装の者もいた。その日、豊田貞次郎軍需相は開襟シャツで、ネクタイを着用していなかった。急遽御前会議が決まり、豊田は盛んに「困った、困った」と言った。すると、見るに見かねた首相官邸のある職員が、あまり上等ではないネクタイを一本見付けて来た。豊田は開襟シャツの襟を無理矢理すぼめてネクタイを締めようとしたが、なかなか上手くいかなかったので、岡田忠彦厚相がネクタイを結ぶのを手伝った。その光景を見ていた迫水久常内閣書記官長は、微笑ましく思ったという。そして、大臣達も一般国民と同じように国の苦難を受け止め、からだで体験しているのだという思いが迫水の頭の中をかすめたという。
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予備役編入後
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昭和3年(1928年)12月21日に願いに依り予備役編入となる。現役を退いた後は国防経済協会会長、食料協会会長、満蒙毛織株式会社相談役となる。また、恩給金庫設立委員、同理事、同理事長となり、恩給金庫の運営に尽力する。また、昭和4年(1929年)に糧友会理事長及び食糧展覧会会長を辞任する(後任は中村精一陸軍省経理局長)。 昭和4年2月19日、貴族院令1条4号に依り貴族院議員に任ぜられ(勅選議員)、貴族院では院内会派の研究会に所属する。昭和9年(1934年)4月29日に勲一等に叙せられ瑞宝章を賜る。昭和20年(1945年)5月11日に石川県大覚寺で講演を行っている。 ポツダム宣言受諾後の昭和20年9月14日に、貴族院制度の改革問題について協議を行うために研究会所属勅選会が開催され、三井も結城豊太郎らと共に出席している。昭和21年(1946年)3月20日に貴族院議員を辞任。昭和24年(1949年)11月30日に享年79で逝去する。
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