予備役編入後とは? わかりやすく解説

予備役編入後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 21:02 UTC 版)

豊田貞次郎」の記事における「予備役編入後」の解説

この年商工省では財界出身資本主義を自ら体現するような大臣小林一三と、同省生え抜き新官僚統制経済国家百年の計として標榜する次官岸信介対立していた。岸はやがて企画院事件発生するとその責任をとって次官辞したが、その後軍部結託して小林一矢報いることに奔走。年が明け、岸が同事件に関連して大臣にも軍事機密漏洩責任があると公言する至って小林もまた大臣辞めざるを得なくなった近衛はこの小林後任豊田推した。しかし現役海軍中将である豊田がつとめることのできる閣僚は、海軍軍政司る海軍大臣のみである。豊田熟慮の上で、ここは海軍現役退いて商工大臣引き受けよう決断した。しかし転んでもただでは起きないのが豊田である。4月4日登庁した豊田は自らの大将進級条件次官依願退職するという前代未聞辞表及川提出し周囲唖然とさせた。及川はこの辞表受理せず豊田大将進級させた上で即日予備役編入し決着見たが、この政界転向には、普段は人の陰口など叩かない古賀峯一をして「豊田さん出世のために海軍踏み台したんだ」と言わしめるほど、省内の誰をも落胆させるような転出だった。しかし当の豊田にとっても「つい懐かしくて用もないのに海軍省前に来てしまうことも多々あった」と後任次官沢本頼雄吐露するほど、不本意後味の悪い幕切れだった。 しかし閣内暴走する外務大臣松岡洋右業を煮やした近衛は、松岡大臣辞任迫れば逆に閣内不一致内閣倒れると判断機先を制して全閣僚から辞表取り付ける急遽参内していったん内閣総辞職し、その場改め組閣の大命受けて今度松岡抜き第3次近衛内閣組織した近衛はこの松岡後任外務大臣に、わずか3か月前に商工大臣就任したばかりの豊田横滑りさせるという。かつて三国同盟締結に関する責任をなすり付けた外務省所轄大臣となることにはさすがに気が引けて豊田再三これを固辞したが、海軍先輩であり同郷でもある駐米大使野村吉三郎との連携うまくいくことを期待した近衛押し切られた。これ以後豊田東京にあってワシントン日米交渉続け野村来栖大使支えた豊田近衛訪米、ないしハワイ訪問してアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト直接会談を行うという秘策をもって交渉進めたが、そうした外交交渉傍ら開戦準備同時に進め日本の姿勢警戒したアメリカは、次第外交交渉そのものが実は開戦準備一環としての空芝居なのではないかという疑念募らせていく。結局二国間主張平行線を描くのみで進展がなく、これに近衛嫌気し結局内閣放り出すこととなった外務大臣在任約6か月辞職したその後間もなく豊田日本製鐵社長に招聘された。海軍時代から関心があった鉄鋼増産現場にようやく立つことができた。製鉄労働者不足のために1941年昭和16年下半期から1942年昭和17年上半期にかけて鉄鋼生産減少しており、克服のために鉄鋼統制会結成され豊田会長就任した小学校卒業生朝鮮人労働者就労強化策、または離職防止策福利厚生充実化を推進した。これにより労働力の確保には成功したものの、やがて戦局の悪化によって原料の確保困難になり、鉄鋼生産力は減少一途をたどる。 しばらく政治から離れていたが、1943年昭和18年3月東條内閣より内閣顧問として招聘された。軍需物資陸海軍配分比率陸海軍激しく対立しており、打開策求められたものの、豊田思惑通りには進まなかった。豊田が再び閣僚となるのは鈴木内閣の時で、軍需大臣運輸通信大臣兼摂したが、もはや生産基盤破壊し尽くされており、豊田打つ手はなかった。 鈴木貫太郎内閣最後御前会議でのエピソード 昭和20年1945年8月14日午前8時、鈴木貫太郎首相奏請という形で、その日午前10時から、急遽最後御前会議開催される事に決まった当時真夏であり、宮中参内等の特別な行事でもない限り閣僚中には軽装の者もいた。その日豊田貞次郎軍需相開襟シャツで、ネクタイ着用していなかった。急遽御前会議決まり豊田盛んに困った困ったと言った。すると、見るに見かねた首相官邸のある職員が、あまり上等ではないネクタイ一本見付けて来た。豊田開襟シャツの襟を無理矢理すぼめてネクタイ締めようとしたが、なかなか上手くいかなかったので、岡田忠彦厚相ネクタイを結ぶのを手伝った。その光景見ていた迫水久常内閣書記官長は、微笑ましく思ったという。そして、大臣達も一般国民同じように国の苦難受け止め、からだで体験しているのだという思い迫水の頭の中をかすめたという。

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予備役編入後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 09:52 UTC 版)

三井清一郎」の記事における「予備役編入後」の解説

昭和3年1928年12月21日願いに依り予備役編入となる。現役退いた後は国防経済協会会長食料協会会長満蒙毛織株式会社相談役となる。また、恩給金庫設立委員、同理事、同理事長となり、恩給金庫運営尽力するまた、昭和4年1929年)に糧友会理事長及び食糧展覧会会長辞任する後任中村精一陸軍省経理局長)。 昭和4年2月19日貴族院令1条4号に依り貴族院議員に任ぜられ(勅選議員)、貴族院では院内会派研究会所属する昭和9年1934年4月29日勲一等叙せられ瑞宝章賜る昭和20年1945年5月11日石川県大覚寺講演行っている。 ポツダム宣言受諾後昭和20年9月14日に、貴族院制度の改革問題について協議を行うために研究会所属勅選会が開催され三井結城豊太郎と共に出席している。昭和21年1946年3月20日貴族院議員辞任昭和24年1949年11月30日享年79逝去する。

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