予備役編入と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:44 UTC 版)
1940年12月、陸軍大佐として大連特務機関長を務めていた安江は予備役に編入された。 軍中央部の方針と安江の意見が合わず、陸相・東条英機によって予備役に編入されたという説もある。しかし安江が陸軍大学校を卒業していない「無天組」であったことを考慮すると、陸軍大佐での予備役編入は通常の人事である。なお安江と陸士21期の同期生であり、陸大を卒業した「天保銭組」である石原莞爾と樋口季一郎は、この時点で共に陸軍中将に進級していた。 陸軍を退いた安江は南満州鉄道に移り、1941年1月に満鉄安江機関長に就任し、1945年8月の敗戦で満州国と満鉄が消滅するまでその任にあった。 安江が手がけた最後の仕事は、中国国民党政府への和平工作であり、敗戦の日の8月15日、国民党政府高官から「話合いに応じる」旨返書があった。安江は、長男・弘夫を書斎に呼び、「おれがこれだけの事をやったということをお前だけでも覚えておいてくれ」と述べ、「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ。俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」 と言い残した。 安江は1945年8月23日に大連でソ連軍に逮捕され、1950年8月14日にハバロフスク収容所で病死した。満62歳没。
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