比叡沈没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 13:26 UTC 版)
その後、服務規程に違反したためか沈み行く比叡から退艦し、また沈没も見届けなかったとして査問会が開かれると思われたが、その査問会すら開催されず、時の海軍大臣であった嶋田繁太郎海軍大将により現役を解き予備役とする懲罰処分を受けた。これを知った山本長官は、「比叡1隻を失うことより、西田を失うことのほうが、海軍にとって痛手である」と連合艦隊の宇垣纏参謀長を嶋田大将のもとに派遣して猛烈に抗議したが、もともと山本らと不仲だった嶋田の裁定は覆らなかった。 予備役編入後の西田はアモイ在勤武官に就任した。以後、同期が昭和18年5月を皮切りに海軍少将に進級する中、大佐のまま第256航空隊司令、第951航空隊司令、福岡地方人事部長など閑職を転々として終戦を迎え、1946年(昭和21年)3月、召集解除となった。
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