比叡山焼き討ちと森可成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:10 UTC 版)
「聖衆来迎寺」の記事における「比叡山焼き討ちと森可成」の解説
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちに際して、当時の聖衆来迎寺住職は仏像、仏具などを船に乗せて、琵琶湖の対岸の兵主大社(ひょうずたいしゃ)へ避難させた。しかし、比叡山の諸堂や山麓の坂本の町も焼き尽くされたにもかかわらず、聖衆来迎寺は焼き討ちを免れ、そのため多くの文化財が現代まで伝わっている。ただし、寛文2年(1662年)の大地震をはじめとする災害によって堂舎はたびたび破損し、中世以前の建物は残っていない。 聖衆来迎寺が織田信長の焼き討ちをまぬがれたのは、信長の家臣・森可成(もりよしなり)の墓所がこの寺にあったためという。森可成は数々の武功を立て、織田信長の信頼が厚い武将であった。比叡山焼き討ちの前年にあたる元亀元年(1570年)、可成は信長の命で宇佐山城(現・大津市の近江神宮西の山)を築き、信長に敵対する浅井・朝倉連合軍に対峙したが、可成は聖衆来迎寺付近の比叡辻で迎え撃ち、討死した。比叡山の僧兵らが信長の敵である浅井・朝倉側についたことが、翌年の比叡山焼き討ちの原因をつくったとされている。聖衆来迎寺は、比叡山との関係から言って、浅井・朝倉側に味方すべき立場にあったが、当時の住職・真雄は、敵方の大将である森可成の遺骸を夜間密かに運び込み葬ったという。その行為に信長は感じ入っていたということであろう。 天正元年(1573年)、京都にあった天台宗寺院・元応寺(元応国清寺とも)の本尊が聖衆来迎寺に移され、天正17年(1589年)には元応寺が正式に聖衆来迎寺に合併された。元応寺は後醍醐天皇の勅願寺で、現在の京都市左京区岡崎にあり、中世には法勝寺と並ぶ円戒(天台宗の戒律)の道場であったが、応仁の乱によって焼失し廃寺になっていた。現在、聖衆来迎寺客殿の仏間に安置される薬師如来像(秘仏、開帳記録なし)が元応寺の旧本尊とされる。
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