立命館大学国防学研究所長
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「石原莞爾」の記事における「立命館大学国防学研究所長」の解説
石原が立命館総長・中川小十郎と関わりをもったのは舞鶴要塞司令官時代のことで、中川が舞鶴の官舎を訪れ、立命館日満高等工科学校設立への協力を要請したことがきっかけとなっている。京都師団長時代には立命館大学中川会館で東亜連盟に関する講演を行ったほか、昭和15年(1940年)9月には『世界最終戦論』初版が立命館出版部から刊行されている。 予備役編入後の昭和16年(1941年)4月、石原は立命館大学に新設された国防学講座の講師として招待された。 日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄(田中智学の息子)などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。 しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。
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