立命館大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:20 UTC 版)
高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている。 関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時にはキャプテンを務め、1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった。 野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから上位指名の連絡が入っていたため、11月18日のドラフト会議当日には大学が会見用のひな壇を設置し、垂れ幕まで用意されていたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている。プロ入りが成らなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て、1988年3月に立命館大学経営学部を卒業して経営学士号を取得した。
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