中島商相筆禍事件と天皇機関説事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:42 UTC 版)
「菊池武夫 (陸軍軍人)」の記事における「中島商相筆禍事件と天皇機関説事件」の解説
予備役編入後は1931年(昭和6年)から貴族院議員(互選による男爵議員)として帝国議会に議席を持った。1934年に商工大臣中島久万吉が雑誌「現在」に執筆した「足利尊氏」において中島が「逆賊」である尊氏を礼賛しているとして議会において糾弾し辞任においこんだ。 1935年(昭和10年)には美濃部達吉(当時東京帝国大学法学部教授)が唱え、当時の憲法学の通説だった天皇機関説を攻撃し、「天皇機関説は国体に反する緩慢なる謀反」「美濃部は学匪」などの批判を展開して国体明徴運動の契機を作った。 菊池は軍人出身であって法律学の専門家ではなく、天皇機関説の趣旨を全く誤解して美濃部を批判しており、美濃部が1935年2月貴族院本会議で天皇機関説を説明するのを聞くや「それならよろし」と呟いたと言われるが、その後、3月になり再び貴族院で美濃部を批判する質問をしている。また、菊池の批判をさらに誤解した一部の右翼が、美濃部に対して「いやしくも天皇陛下を機関銃に例えるとは何事か」などと大掛かりな批判運動を展開し、結果、美濃部は貴族院(1932-35年、勅選議員)から追われた。一方の菊池も、1939年(昭和14年)の第8回伯子男爵議員選挙で落選した。
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