中島利一郎の反論
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「中島利一郎の反論」の解説
「『義経再興論』の明治18年から40年余りを経て、大正13年の末にこのような馬鹿な書が出版されるとは思ってもみなかった」と前置きし、「小谷部氏が名もない一酋長の遺跡の前に立って、その辺の都祉と思っていたなどとはとても他に見られない図である。『余之を訊き、愕然として驚き、而して』その後ろにつぐべき言葉を知らぬ」と結び、義経=オキクルミ、義経=ジンギスカンではないと断言した。「大汗のクロー宮古にありという、氏の独合黒点に止まる。実に粗忽屋である」とまで書いて痛罵した。「人間生活のやみがたき本能を洞察し、その理解に到達する方法」(岩崎前掲書)をもって小谷部説を批判し、「最後は笑って義経論を閉じることが出来た」と書いている。 (要人が「クロー」と満州で呼ばれていたことに対し)小谷部は九郎(義経官職の九郎判官)に結び付けたがっているが、蒙古語「古兒罕グルハン」であり、「部落の長」である。発音は「グラン」に近い。 「黒森山判官稲荷神社縁起」はまったくの偽書である。 日高沙流郡ハヨピラなるハイエヌサウシの地は義経の遺跡ではない。住吉のアイヌがHayo(剣魚の鼻の武器)を「崖の間」で発見し、それをオキクルミの器だと信じてその地を霊場視し木弊を奉った処である。 オキクルミは造化神の意味でアイヌ語の「クルミ」は日本男子で、「クルマツ」は日本婦人のことだから、混乱して蝦夷に渡ってきた和人の英雄と解する人が多くなった。永田方正に従えばオキクルミはオオキリマイ、オキキリマイと云っていたのが訛ったのである。 アイヌ説話のサマウンクルはオキクルミに先んじて死んでいるし、オキクルミは樺太アイヌから殺されている。サマウンクルが弁慶であるとすれば、義経に先んじて死んだことになるから小谷部氏の大陸渡航説はありえない。 源九郎義経判官のシンボルとして「九」の数を挙げているがアイヌは「六」がシンボル数である。 小谷部は「西利亜及沿海州の蘇城」、「双城子と義将軍の石碑」の二項を設け、日本の武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛りだとするが、山丹人は黒龍江岸ばかりでなく、樺太南部にも住んでいるから、アイヌから云えば樺太・山丹は選ぶところではない。従って蘇城などに行くわけがない。 「バル」とは蒙古語の虎の意味。蒙古語の虎はバルでなく「巴兒思」である。城は「巴剌合孫」(バラスガン)。 法衣(ホロム)は蒙古語で、他に満州語、朝鮮語、でも似た言葉があり「クルメー」、「コロモ」などアルタイ語族の通用詞である。 タイシャー(小谷部説は大将の意)は蒙古語では大石(タイシー)。親友の意味の蒙古語アンダ(安答)はオロッコ語のAndaなどと同系である。 小谷部が山の上を「タッパ」と聞いたのは、蒙古語の「峠、峰」の意味である「蓉巴」(ダベ)を訊き間違えたのだ。 成吉思汗の父の名は「エゾカイ」ではなく「也速該」(エガイ)である。蝦夷は他民族はエゾと呼ばない。アイヌ語や奇鄰語では、Ainuといい、山丹語ではKuiである。蝦夷(カイ)に近い。ニクブン語(ギリヤーク語)ではKugiである。 ニロンはニホンの訛りではなく、蒙古語の「納㘓(口偏に闌)ナラン」、納藍(日、太陽)から訛ったものである。 キャトはアボルガジイ氏曰く成吉思汗の姓は「キャン」で、蒙古語の岩石に直下する飛泉の意味で、「キャト」はその複数形である。
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