開国と幕権の動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)
「王政復古 (日本)」の記事における「開国と幕権の動揺」の解説
江戸時代後期、国学の進展などにより知識人の間に尊皇思想が広がっていった。一方、幕府支配の正当性の根拠を大政委任論に求める見解も、江戸初期の禁中並公家諸法度(第1条)よりその萌芽は見られたが、幕政の建て直し(寛政の改革)を主導した老中・松平定信が朱子学を推奨したことで、浸透したとされる。いずれにしても正当性の源泉を天皇に認める点は共通しており、その権威は広く認識されるようになっていた。 幕末の黒船来航(1853年)以後、開国・通商をめぐって国論は二分する。二百年来の鎖国方針の大転換、それも西洋の軍事的脅威に屈した結果と受け取られたことで幕府の威信は急落し、幕府は沸騰する攘夷論を抑えて通商条約を締結するのに朝廷の権威に頼らざるを得なくなっていた。 当時、病弱な将軍・徳川家定の継嗣問題をめぐり、幕閣・諸大名の間に一橋派と南紀派の対立が生じた。老中・阿部正弘、島津斉彬(薩摩藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)、徳川斉昭(前水戸藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、山内容堂(土佐藩主)、松平春嶽(越前藩主)ら一橋派が、斉昭の子で御三卿一橋家当主の徳川慶喜擁立を図るのに対し、井伊直弼(彦根藩主)ら南紀派は、将軍・家定の従弟・徳川慶福(紀州藩主)を支持していた。幕政の埒外に置かれていた親藩や外様雄藩も参画する挙国一致の新体制の構築をめざす勢力と、従来の幕府体制の堅持を志向する幕閣、譜代中心の保守派の対立であった。 安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任、6月には徳川慶福が将軍継嗣と定まり、南紀派が勝利する。同時期から9月にかけて安政五カ国条約の調印がなった。孝明天皇の攘夷の意志は強固で勅許を得られぬままの調印であったため、攘夷論は尊王論と結びつき幕府を非難する声はいっそう激しく、また開国論者の多い一橋派からも無勅許調印である点が攻撃された。井伊は安政の大獄を断行してこの動きを弾圧するが、これに反発する水戸浪士らに暗殺された(桜田門外の変(1860年))。 井伊の死後、老中首座の安藤信正らは、尊王論を立てて幕府に反発する勢力を鎮めるため、公武合体によって幕府の権威を回復すべく、以前から検討されていた孝明天皇の妹・親子内親王(和宮)と将軍家茂(慶福改め)の結婚を推進した。交渉は難航したが、侍従・岩倉具視が天皇の諮問に対して破約攘夷を条件とする降嫁の承認を進言し、天皇は将来の攘夷実行に期待してこれを勅許した。和宮は文久元年(1861年)11月に江戸に下り、翌年2月に婚儀が行われたが、その間安藤はこの政略結婚に反発した水戸脱藩浪士らに襲われて負傷し(坂下門外の変)、4月に老中を罷免された。
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